宇宙の外にはなにがある?[1]
『華谷忍の妄想科学』。
科学的に正しくないことであっても、「こう考えたらどうなるのかな?」ということをただただ書き綴っていきます。
これを読んで、考えることって楽しい。って思ってもらえればうれしいです。
今回は、我々が一般的に思い浮かぶ一番大きなモノである「宇宙」について考えてみたいと思います。ずばり、「我々の宇宙の外には何があるのか?」について考えようと思います。
我々は日々の生活の中で「宇宙の果て」という概念について考える機会は少なかれど、その言葉自体は使ったことがあると思いますし聞いたこともあると思います。今回はその「果て」の向こう側に目を向けてみようと思います。
【目次】
《そもそも宇宙とは》
若干本筋から逸れますが、そもそも、宇宙の大きさについては3つの見方が世の中には存在しています。「拡張し続けている」、「ある程度の大きさで停滞している」、「ある程度の大きさになってから縮小している」の3つです。
①宇宙は拡張し続けている
一つ目は、ビッグバンによって宇宙が誕生してから現在もなお拡張し続けているという考え方です。その拡張の速度を正確に測ったものはいませんが、今のところ観測できている最遠の天体の遠ざかり方を見ると、とんでもない速度で広がっているようです。
この広がり方は、赤方偏移(せきほうへんい)という言葉で説明がつくのですが詳しく議論するのは今回の趣旨に反するので控えたいと思います。身近なところで例えると、音と同じような現象が光にも起きます。救急車のサイレンで考えるとわかりやすいのですが、近づくときはどんどん音が高くなり、自分の目の前を通り過ぎて音源であるサイレンが離れていった瞬間から音は低くなり始めます。
つまり、この「音源が遠ざかると低くなる現象=ドップラー効果」と同じように光も「光源が遠ざかると、光源から発せられる光が赤のほうに偏る」という現象が起こります。簡単にとらえれば、これが赤方偏移です。
ちなみに、逆に近づくと青に偏ります。スペクトルだのなんだのという慣れない言葉が出てくるような概念なので、この辺で赤方偏移の説明は終わりにします。とにかく、現状、この赤方偏移が観測することができている以上、今のところ宇宙は拡張しているとの見方を世界ではしているわけです。そして、この先もずっとそうなり続けるというのがこの考え方です。
②ある程度の大きさで停滞している
二つ目は、宇宙はある程度の大きさで拡張も縮小もしないという考え方ですが、ビッグバンの時の勢いそのままに膨張を続ける宇宙がいつか膨張をやめてしまうというものです。
この現象は今のところ観測されてはいませんが、なにせ赤方偏移で観測した天体自体もとんでもなく遠く(数億光年じゃきかない世界です)にあるので、我々が見ているのは「その天体の、とんでもなく昔の姿」であるからです。
一番遠くにある天体は確か130億光年くらい向こうにある天体、クエーサーか銀河だったと記憶していますが、我々の天体の観測手段が光に依存している以上、その天体を我々が観測するとなるとその天体の130億年前の姿になるわけです。地球が生まれるよりもはるか昔の話です。
ですから、もしかしたら遠ざかることをすでにやめていて宇宙の膨張もそこでストップしている可能性もありますし、そもそもその天体が存在するかどうかさえ分かりません。50億年前に消失していたとしても、我々の目にはそこにあるようにしか観測ができないのですから。
③ある程度の大きさになってから縮小している
三つ目の宇宙は縮小しているという考え方についても二つ目と同様に、すでに縮小を始めているかもしれません。もちろん、我々の地球が存在しているうちにこの縮小が何かしらの影響を与えることはないと思われますが、縮小するということは、いつかこの宇宙は消失してしまうということです。
もしくは、中性子星のように何かしらの形になって残るのかもしれませんが、そんなこと我々(普通に生きている人々)の知ったところではありません。ただし、物理学者や天文学者のとってこの事柄はとても重要な研究テーマとなっています。
我々の生活に関係がないと思われることを大真面目に研究している人もいるということと、その研究が大真面目に行われているということは、私個人としてはとても面白いことのように感じます。皆様にも面白いと感じてもらって宇宙という存在に興味を持ってもらえればなあ。と思います。
このように、宇宙の果てを考えるときには宇宙そのものについて考えることから始めるのが順序としては正しいと思われます。ここまで書いておいて言うのもなんですが、今回はその向こう側について考えてみます。
ただ、ここで述べた膨張や縮小、停滞の話は今後宇宙について考えるうえで必要になるかもしれないことなので、覚えておいて損はないと思います。では、次節では宇宙の外側についてその本筋の議論に入っていくとしましょう。
以上、今回は宇宙の外には何があるかを考えるにあたっての宇宙についての考え方について書きました。
次回から本題に入ります!
華谷忍
【機能美を目指して】LE ARGENT(ル・アルジャン)のマネークリップを購入【長財布(ロングウォレット)から移行】
皆様どうお過ごしでしょうか。
華谷忍です。
普段、私の個人的な妄想を書き綴っている本ブログですが今回は私の生活について書こうと思います。
【目次】
昨今、ミニマリストなどの流れで話題のマネークリップ。
《もともと使っていた財布》
私は特にミニマリストでもなく、大学生の頃より革製の長財布を愛用してまいりました。
使っていたのは、「ART BROWN(アートブラウン)」のロングウォレットです。
色は3種類のうち「タン」をチョイス。
この財布はシンプルかつ、革が分厚く丈夫そうであるとのことで購入しました。
そして、現在に至るまで5年以上活躍してくれています。
エイジング(経年変化)も進み現在では以下の通りの色に。
結構色がついていますね。
《マネークリップにしようと思った理由》
こういう経年変化を楽しめるのも革長財布の魅力でしたが、私には一つの問題が。
「普段出かけるときに使うカバンが小さい」
ということ。
もちろん、持ち運べないことはないのですがやはり荷物は小さくしてカバン内の余裕は少しでも持っておきたい。
そういう理由で「マネークリップはどうだろう」という考えが。
マネークリップを選ぶ中で、私の求める要件は以下の通りでした。
・コンパクトであること(これは当たり前ですね)
・カードの収容枚数が多いこと
・デザインがかっこいいこと(ここ大事)
〈マネークリップ選び〉
この条件で探してみたところ、
この2つがヒット。
STORUS(ストラス)のマネークリップについては、カードの収容枚数が5枚。
ミニマルなスタイルを目指しているわけではないので、この枚数だと個人的には厳しい。
そこで、The RIDGE(ザ・リッヂ)のもの。
こちらはカードの収容枚数が多い。
デザインもいい!
でも・・・
高い(いい製品なので当たり前)
なのであきらめることに・・・。
その後も調べているとなんと!
のものがthe RIDGEのものと同じようなデザイン。
レビューなどを読んでみるに、粗悪品ということはなさそう。
〈マネークリップ購入レビュー〉
はい!買いました!
カーボン調のものです。
2000円とは思えない箱に入って届きます。
これならプレゼントとしても良いですね。
箱を開けると商品が真ん中に鎮座しております。
手に取ってみました。
うーむ、カーボン調カッコイイ・・・。
手に収まる大きさでいい感じ。
金属板のバリもなく手触りも悪くありません。
重量は約120g。軽すぎる重すぎず。
裏にはマネークリップの名の通り、お札を挟むクリップがあります。
カード収納部は3か所強力なゴムバンドでホールドする方式。
8枚収納とサイトには書いてありましたが、厚さによるのか10枚以上入ります。
もしかしたら入れすぎかもしれませんが、本家のthe RIDGEが15枚収納ということなので同じ規格であれば15枚前後入れることも可能だと思われます。
クレジットカードなどの文字が刻印されているタイプのものを挟むと浮いた感じに。
カードを出す際は、半円形に凹んでいるところを指で押して束を押し出し選ぶというもの。
カード自体がかなりの力でゴムバンドでホールドされていることも相まって慣れるまでは難しそうです。
女性であればストレスになるかもしれません。
この点は、使っているうちにゴムバンドが慣れてくるのでしょうか。
しばらく使って様子を見てみようと思います。
次はお札に関して。
1000円札を半分に折って挟んでみました。
うーん・・・はみ出てしまいますね。
2つ折りは難しそう。
3つ折りにしてみたところ・・・いい感じ!
しかし、カードを押し出す凹み(半円上の切り欠き)が隠れてしまう。
お札に関しては4つ折りで収納するしかなさそうです。
《まとめ》
今回は、私の購入したマネークリップについて紹介しました。
感じたメリット、デメリットは以下の通り
〈メリット〉
・コンパクト
⇒それが目的の買い物ですから、当たり前ですね。
・デザインがかっこいい
⇒デザインに関しては個人差がありますが、機能美を感じるデザインです。
・2000円という値段なのにチープさを感じない
⇒もちろん、バリバリの高級感を感じるということもありませんが、重厚感はありチープさは感じません。
・カードがたくさん収納できる。
⇒ミニマリストを目指しているわけではない(カード枚数を減らすことが目的ではない)のでこの点は私にとって大きなメリットでした。
〈デメリット〉
・カードのホールドがキツい
⇒結構な力でホールドをしているので、取り出しやすい!というわけではありません。
取り出す流れに自分が慣れたり、ゴムバンドが馴染めばいい塩梅になるのか。
とはいえ、ホールド力が強くないとカードが脱落してしまう危険があるのでこの点はメーカーも想定済みかもしれません。
・小銭が入らない
⇒マネークリップを選択した以上仕方ありません。
私も小銭入れを別に用意しています。長財布と同じアートブラウンのもの。
以上、今回は私が長財布からマネークリップへ移行したことを書きました。
少しでもマネークリップに興味があるのであれば2000円というコスパも相まって買ってみるのはアリだと思います。
まだ私も使い始めたばかりです。
今後、長財布に戻るのか、マネークリップを継続するか。決めていこうと思います。
華谷忍
未来が過去を規定していると考えたら・・・?[7]
『華谷忍の妄想科学』。
科学的に正しくないことであっても、「こう考えたらどうなるのかな?」ということをただただ書き綴っていきます。
これを読んで、考えることって楽しい。って思ってもらえればうれしいです。
今回は第7回。最終回です。
前回からの詳細な考察を経て、私がどう結論付けたのかについて述べていきます。
↓前回の記事↓
↓それ以前の流れが気になる方はこちら↓
未来が過去を規定していると考えたら・・・?[1] - 華谷忍の妄想科学哲学
未来が過去を規定していると考えたら・・・?[2] - 華谷忍の妄想科学哲学
未来が過去を規定していると考えたら・・・?[3] - 華谷忍の妄想科学哲学
未来が過去を規定していると考えたら・・・?[4] - 華谷忍の妄想科学哲学
未来が過去を規定していると考えたら・・・?[5] - 華谷忍の妄想科学哲学
【目次はこちら】
本書で取り上げた4つの仮定の中で一定の妥当性があると結論付けた仮定は以下の通りです。
《一定の妥当性があると結論付けた仮定》
①時間の果てにあるものは「無」である。
③時間は無限に続くので終わりはない。
④ 時間は途方もない未来まで行ったら、我々にとっての途方もない過去に戻る。
要するに、「神」だとかそういう人知を超えたような存在について考えを巡らせない限り、あらゆる可能性を簡単に否定することはできないし、完全に否定されるまでは、理論的に考えて明らかな100%の欠陥がない限りは、ある程度説明ができてしまえば「一定の妥当性がある」と考えてしまっても差し支えないのでは。と私は考えるわけです。
〈結論〉
本書として、“「未来が過去を規定している」とのテーマ”について考えたときに得られた結論や可能性について、一つにまとめて締めくくるのであれば、
『「未来が過去を規定する」との考え方は、一定の妥当性を有している』
ということになるといえます。
ここまで、私個人の論として皆様に問いを投げかけ、考えてきましたが、実は「未来が過去を規定している」との考えは、現実の最先端の物理学(正確には量子物理学の世界)の中でまじめに議論をされていることです。ここまで敢えてそのことは持ち出さずに、考えられてきましたが科学世界で議論をされているテーマであることは事実なのです。
物理学の専門誌「フィジカル・レビュー・レターズ」に掲載された研究によると、量子の世界では時間の流れが一方通行ではなく、過去から未来、未来から過去へと流れるという。言い換えれば、未来の事柄が、過去に影響を与えているということになる。これを我々の世界に当てはめると、現在の自分の行動は、未来の自分の決断に影響を受けている(※より引用)との考え方があるのです。
さらに、ワシントン大学のケーター・マーチ教授らは、量子の状態を測定した後に結果を隠し、その結果を2つの方法で予想する実験を行った。すると、時間が過去から未来へと一方的に流れるという一般的な前提での予想は半分ほどの的中率であったのに対し、時間が過去と未来どちらへも流れるという前提での予想は的中率が9割を超えた(※より引用)との実験結果もあるそうです。
これらは、我々のように量子について専門的に研究していない人々には想像もつかないような高度な数学を持って計算され、議論されている世界です。しかし、ここで私は一つ言いたいことがあります。
日常に疑問を感じて哲学的に考えて導く出すことができた結論が、最先端の量子物理学の世界で大真面目に議論されていることと同じことだった。というこの結果それ自体が、面白いとは思いませんか?ということです。
決して、哲学的思考が優れているとか量子物理学が優れているとかそういう問題ではなくて、まったく違う学問の分野から全く違う考え方でアプローチを書けたはずなのに、まったく同じような考えにたどり着いたわけです。これを非常に面白いと思っていただいた読者のあなたは、ある意味卑屈かもしれません。
しかし、この考え方をできるということは、非常に大きな武器であると私は考えます。
未来が過去を規定していると考えれば、過去にとらわれることなく生きるかもしれませんし、逆に未来に過去が規定されているということは自分ではどうやっても今を変えることができないと考えて逆に気を病んでしまう可能性もあります。
時間についてはいろいろな考え方がありますが、まだこれといった結論は出ていません。おそらく、科学者はそこをひたすらに突き詰めていくのだろうと思います。皆さんも、日常普通だと思われていることに疑問を感じて考えてみてください。
以上で「未来が過去を規定していると考えたら・・・?」 について終わろうと思います。
読んでいただきありがとうございました!
次のテーマも読んでいただけると嬉しいです。
華谷 忍
未来が過去を規定していると考えたら・・・?[6]
『華谷忍の妄想科学』。
科学的に正しくないことであっても、「こう考えたらどうなるのかな?」ということをただただ書き綴っていきます。
これを読んで、考えることって楽しい。って思ってもらえればうれしいです。
今回は第6回。
前回からの詳細な考察。
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未来が過去を規定していると考えたら・・・?[1] - 華谷忍の妄想科学哲学
未来が過去を規定していると考えたら・・・?[2] - 華谷忍の妄想科学哲学
未来が過去を規定していると考えたら・・・?[3] - 華谷忍の妄想科学哲学
未来が過去を規定していると考えたら・・・?[4] - 華谷忍の妄想科学哲学
今回は「4つの壁」のうち④について詳細な考察を書いてみようと思います。
【目次はこちら】
《詳細な考察-④について-》
最後に④はどうなのでしょうか。あらかた、④の箇所で論じてしまいましたが、実際に時間が循環しているのと似たような現象を自然界でも見ることができます。あくまで、ここでは実感を持ってもらうためのものなので、ずばり時間が循環しているという現象ではないことをご承知おきください。ここでは、2つの例を出して話してみたいと思います。
〈時間の循環〉
[1つ目の例:地球の公転]
一つ目は、ずばり地球の動きです。単純に地球が描く真円の中心に太陽があると考えてみましょう。ある一点から、地球がぐるっと一周すると、同じ場所に戻ってきます。この場合、時間が過去から未来へ流れたわけですが、場所は変わっていません。つまり、過去の地球の位置と未来の地球の位置、もっと短くまとめてしまえば、過去と未来が同じ場所に存在します。
このようなイメージで、時間とは「未来と過去の区別がないものなのかもしれません」ということを④は言っていたわけです。この④の仮定から導ける結論は「時間の流れは単一方向ではなく、循環しており過去だとか未来だとかそういう区別すらない。
しかし、我々の生きている時間軸で考えるのならば、過去が未来を規定しているし、未来もまた過去を規定している」というものです。これは、私個人としては妥当な結論だと思うのですが、皆様どうでしょうか。
それを考えるのが本書の趣旨の一つなので少しだけ論じてみたいと思います。先ほどの地球の移動の例で、過去と未来が同じ場所に存在することを感覚的には分かったと思います。
[2つ目の例:ベニクラゲ]
では、2つ目の例を出して、感覚的な理解からより時間の流れについての話に落とし込んでみたいと思います。この例の主人公は「ベニクラゲ」と呼ばれるクラゲです。このクラゲは、通常通り小さな状態から繁殖可能な状態へと成長していきます。
しかし、ある程度成長すると、再び小さなころの状態へと戻ってしまうのです。そして、また成長して。というのを繰り返します。つまり、不老不死なのです。生物の成長を未来へ未来へと進めていったら、そのまま連続して過去会った状態へと変わってしまったのです。ここでは複雑になるので、クラゲの中での時間の流れだけを考えましょう。そうすると、未来のその先に過去があることになります。これって、このクラゲにとって未来と過去の区別がないことに他ならないと考えることってできませんか?
話を戻して、以上のような考え方をしてみると、④でも書きましたし今ここで論じたように、「時間は循環している。未来と過去の区別はなく、未来が過去を規定しているともいえるし、過去が未来を規定しているともいえる」との結論は、現実世界(ベニクラゲの例)でそのまま適用するのが正しいのかどうか分かりませんが、ありえない話でもないのがわかってきたと思います。したがって、④の仮定も一定の妥当性を有していると結論付けてよいでしょう。
〈割り切って考えてみる〉
また、議論が複雑になるのであえて4つの仮定の部分では論じませんでしたが、「未来が過去を規定している」と考えるとともに、「過去が未来を規定している」と考えることもできる。という可能性も考えることができます。つまり、過去と未来が相互に影響しあっているということです。そういう考え方をすることで、今までの議論で生じていたあらゆる問題を解決することができると思いますが、もちろん新たな問題点も出てきます。その問題点は、過去と未来が競合することはないのか?ということです。
もちろん、「過去が未来を」「未来が過去を」とそれぞれが規定しあっている。影響しあっている。と個別に考えて、「そういうものである」と納得することができるのであれば、それはそれでいいのですが、どうしても疑問に思ってしまう方はいると思います。
もし、この「未来と過去が互いに影響しあっている」という仮説が正しいとするならば、この問題点(疑問)については、「そういうものなのだ」と割り切るほかありません。そもそも、現在の物理学の世界でも我々の常識で考えると意味が分からないことでも、数学的に正しいことなどたくさんあるのですから。そういうものなんのだな。と割り切って考えることも、こういう哲学的な思考では大切であるといえます。
「今までの常識にはそぐわないけど、そう考えるのが一番自然だし、そういうもんだと思うと計算がうまく行くし、実際にそれは正しかった」という具合に割り切って考えるというのは、哲学だけの世界だけかと思いきや、本書で直接関係する物理学の分野でも思いのほか重要な考え方です。いくつか例を挙げるとなんとなくわかっていただけると思います。
[例:光の速度について]
例として、光速についての考え方があります。実は、光は、たとえ時速1万㎞で進むロケットの先端から照射しても、静止した状態から照射しても、その放たれた光の速度は必ず光速であるのです。普通、時速100㎞の車から進む方向にボールを時速50㎞で投げたら、外から観測した場合のボールの時速は150㎞になりますよね。
この、観測するものによってボールの速さが時速50㎞に見えたり、時速150㎞に見えたりするのがいわゆる相対性理論の考え方のキモなのですが、本書は相対性理論について科学的に論じるものではないので、ここでは置いておきましょう。
話を戻すと、光速はこれらの常識が通用しない世界に生きているものなのです。どこで観測しようとも光速は光速です。この考え方、今でこそ世間に知られている考え方ですが、当時はちゃんちゃらおかしい考え方だったはずです。
しかし、「光の速度とはそういうものなのだ」と割り切って考えて計算を続けた人間がいたから、現代の物理学があるわけです。それが相対性理論なのですが、その理論で有名なのがかの有名なアインシュタインですね。彼はほかにも、普通の人間が到底考えないようなことを物理学的に考え、それを実証してきました。
もし、彼が「とりあえず、これはこういうものだと割り切って考えよう」という考え方をせずに、「いや・・・これはありえないだろ」と考えていたら、彼はここまでの功績を遺せていませんし、我々の今の生活もないでしょう。
話がそれましたが、割り切って考えてみることで新たに見えてくる世界もあるのですよ。ということを私はここでいいたかったのです。
今回は以上です。
次回は、「4つの壁」についてのまとめをしていこうと思います。
華谷 忍
未来が過去を規定していると考えたら・・・?[5]
『華谷忍の妄想科学』。
科学的に正しくないことであっても、「こう考えたらどうなるのかな?」ということをただただ書き綴っていきます。
これを読んで、考えることって楽しい。って思ってもらえればうれしいです。
今回は第5回。
前回からの詳細な考察。
↓前回の記事↓
↓それ以前の流れが気になる方はこちら↓
未来が過去を規定していると考えたら・・・?[1] - 華谷忍の妄想科学
未来が過去を規定していると考えたら・・・?[2] - 華谷忍の妄想科学
未来が過去を規定していると考えたら・・・?[3] - 華谷忍の妄想科学
今回は「4つの壁」のうち③について書いてみようと思います。
【目次はこちら】
<詳細な考察-③について->
では、③についてはどうでしょうか。前述の仮定の列挙の際に論じたように、無限に続くと考えるとどうしても「∞」の概念について考えなければなりません。すると、未来の終点にあるはずの“大元の時間を規定するもの”について考えることが非常に困難になります。
∞+1年後が、∞年後を規定していると考えたとしても、無限大に1を足したところで無限大は無限大。つまり、数学的に全く差がないもの同士が規定し、規定されてしまうわけです。数直線上で見たときに位置が変わらないところに前も後もありません。これも、書いた通りですね。さて、それでは議論をもっと先へ進めていきましょう。
『行き詰ってしまうこと。実はこれは重要なことです。行き詰ってしまうという事実が、この仮定について
1:「未来が過去を規定するというのは誤りである」
2:「そもそも、この③の仮定が誤りである」
3:「この③の仮定は間違っておらず、この先の時代に数学的、物理的に証明される可能性がある」
4:「過去が未来を規定していると考えると、時間の始まりについて論じることができる以上、そもそも本書の仮定が誤りである」
と様々な可能性を考えることができる』
という風に③の仮定を挙げたときには書きました。この様々な可能性について考えなければ、本書のテーマとする妥当性を導くような議論に発展をしません。
1:「未来が過去を規定するというのは誤りである」
一つ目の「未来が過去を規定しているというのは誤りである」という可能性について。③の仮定のみで本書のこのテーマを考えるとそうなるのは納得のできる結論です。なにせ、考えが行き詰ってしまうのですから。逆に、宇宙の始まり。つまり、我々の知る時間の概念の始まりについてはビッグバン説で説明ができるのですから。
未来についても、ビッグバンと同じく“端=未来で時間が終わりを迎える瞬間”があるとの考え方に立てば、行き詰りませんが、③の仮定はそうではなく無限に続くものとして議論をしていますので、やはり考えは進みません。すると、「過去が未来を規定している」と考えた方がずっと納得できるような結論を導くことができるわけです。
2:「そもそも、この③の仮定が誤りである」
二つ目の「そもそも、この③の仮定が誤りである」という可能性について。一つ目の可能性と同じく、「時間が無限に続く」と考えて、本書のテーマである「未来が過去を規定している」という仮定に反するのであれば、本書のこの議論においては「未来が過去を規定している」というものを曲げることはできないので、その通り、「③の仮定が誤りである」といわざるを得ません。
3:「この③の仮定は間違っておらず、この先の時代に数学的、物理的に証明される可能性がある」
三つ目の「この③の仮定は間違っておらず、この先の時代に数学的、物理的に証明される可能性がある」。これにういては、無限大という概念をどうとらえるかによりますが、今まで敢えて出していなかった考え方をしてみると、この仮定の下でも少し考え方を進めることができます。例えば、はるかに未来の西暦y年があったとしましょう。何千年とか言う単位でも、何億年とか言う単位でも何でも構いません。
ここで重要なのは、y=∞ではないという点です。「“無限大”ではなく“はるかに未来”」です。もし、西暦y年が西暦y+1年に規定されていると考えるとしましょう。これは納得できますよね。これは、はるかに無限に遠い未来についても、その時の2年間だけを切り取って考えることで議論が可能です。
さて、勘が良い方は気が付いたかもしれません。この議論は、
「時間の終点を無限大と考える」のか、「時間は無限大の方向に流れている」と考えるのか
の差です。
「x=∞」と考えるのではなく、「xを時間と考えたときに、lim┬(x→∞)」と考えるのです。(極限の概念についていきなり出てきましたが、これは許してください。気になる人は、極限のlimについて調べてみてください)すると、後者の場合では時間の終点は∞に同じになることはありません。
あくまで、∞の方向にひたすらに永遠に流れ続けるだけです。すると、本書の「未来が過去を規定している」というものが、先ほどの西暦y年の例で説明ができるようになりますよね。
ほら、無限の概念を少しだけ克服できた気がしませんか?少しだけ、考え方を変えたり、拡張したりするだけで、見えてくる世界に変化が出ることは分かったと思います。ということは、もしかしたらx=∞についても扱える日が来るかもしれません。
もちろん、私は高度な数学を扱える知識は持ってはいませんが、x=∞についてそこに前後をつけるというのは非常に難しいと思います。もしかしたら、不可能かもしれません。
ただ、ここで不可能と決めつけてしまうのは柔軟な思考力を奪うことになってしまう(本書の趣旨に反してしまう)ので、可能性があるとして本書のここでの議論としては終わりにしておきます。
4:「過去が未来を規定していると考えると、時間の始まりについて論じることができる以上、そもそも本書の仮定が誤りである」
四つ目の「過去が未来を規定していると考えると、時間の始まりについて論じることができる以上、そもそも本書の仮定が誤りである」について。
これも、この前の三つ目の可能性で論じていることを抜きにして考えた場合に出る可能性です。乱暴な言い方をしてしまえば、
「従来通り、一般的に考えられている“過去が未来を規定している”と考えて、我々の時間(宇宙)の始まりがビッグバン説などで説明できるのだから、それでいいじゃないか。ましてや、“未来が過去を規定している”と考えたときのほうが無限の概念が出てきて扱いに困るのなら、なおさら“過去が未来を規定している”と考えたほうがいいではないか」
ということを、この可能性では言いたいわけです。
ここまでさんざん「未来が過去を規定している」と述べてきた本書ですが、当たり前の常識的な思考をもって考えれば「至極当然に出てくる可能性」であるといえます。
以上で今回は終わりにしたいと思います。
次回は、「4つの壁」の4つ目について詳細な考察をしていきます!
華谷 忍
未来が過去を規定していると考えたら・・・?[4]
『華谷忍の妄想科学』。
科学的に正しくないことであっても、「こう考えたらどうなるのかな?」ということをただただ書き綴っていきます。
これを読んで、考えることって楽しい。って思ってもらえればうれしいです。
今回は第4回。
いよいよ詳細な考察に入っていきます。
詳細な考察をする対象の「4つの壁」については前回と前々回の記事を参照ください。
前々回→未来が過去を規定していると考えたら・・・?[2] - 華谷忍の妄想科学
前回↓
【目次はこちら】
<詳細な考察>
さて、ここまで本書のテーマである「未来が過去を規定している」と考えたときにどうしてもぶつかる壁である「時間の終点」について、4点の仮定を挙げ、それぞれについて述べてきました。
ここから、本書のテーマが妥当な結論を導くことができているのか。について考察していきたいと思います。
①「時間の果てにあるものは「無」である」について
まず、①の時間の未来の方向にあるのは、ただ「無」であるというものでしたが、「無」とはいったいどのようなものでしょうか。答えは簡単で、本当に何もない。ということです。したがって、「“無”がある」という言い方自体が適切ではないことになります。無いのにあるというのも変な話ですからね。
ここで一つの疑問が出てきます。「未来が過去を規定している」との本書での糧に基づけば、未来に時間をたどっていけば必ず何かしら規定する大元のものがあるはずです。あるはずなのに、「“無”である」との仮定を持ち出してしまうと矛盾が生じてしまうのではないか。というものです。
この疑問は確かに、言われてみればそう思ってしまうものです。しかし、この疑問に対しては意外と現在ある考え方を応用し考えてみることで、①の仮定が必ずしも100%間違いではないことが分かります。
それでは、現在ある考え方とは何でしょうか。それは、本書でも出てきている「ビッグバン」です。簡単に述べるのなら、ビッグバンは、宇宙の始まりは一点に集中した状態で、そこから爆発したかのようになり現在でも膨張を続けているであるとの理論です。
厳密にいえば、ビッグバンは「無から有が生まれた」という理論ではないのですが、時間の未来の果てにもこのような点があっても良いのではないのでしょうか。つまり、既存の考え方をただ何も考えずに当てはめるだけでも、「時間の未来の果てにはすべての時間を規定する何か一点がある」という考え方ができなくもない。ということです。
ちなみに、ビッグバン理論に出てくる「点」について、それがどのように生じたかについては物理学の世界でもはっきりしていないところではあります。ただ、ここで考える点は、膨張したり拡張されたりする前の点です。
数学的に「点」というものの面積はゼロです。確かに、紙に点を打てば目に見えるものになりますがそれは便宜的にそうしているだけであって、点に面積はありません。「点は無でもある」と言えるのかもしれません。もっと言えば、「線」も本来は面積を持ちません。
そのため、もしかしたら時間の未来の果てにあるものは「線」かもしれません。①の仮定のように、完全に無である。とは言い切るのは難しいのですが、限りなく無に近いものを時間の未来の果てに垣間見ることはできるわけです。
この点で、①の仮定は必ずしもありえない仮定ではないということが分かります。
② 時間の果てには「神」のような何かしらの超常的な力を持った存在がいて、その存在が時間を規定している。
次に②の仮定についてみていきましょう。繰り返しになりますが、この仮定で私がはっきりさせておきたいのは、この仮定に出てくる「神」というものは、必ずしも宗教的な「神」とは違うものであるということです。この仮定のたどりついた超常的な存在を説明する概念について、我々が持っているその表現方法としての「神」です。決して、宗教的な話をするつもりはないので、そこは改めてはっきりさせておきたいと思います。
②で重要なのが、過去を規定する存在である未来について考えたとき、そこに終点を明らかに設定すると、どうしても説明ができない領域にまで行ってしまう。ということです。①の仮定でも終点を設定していますが、それはあくまで我々の知っている概念の応用で考えていったものなので、形があるもの(“無”という形だとしても)として認識できるとして考えています。
②のこの仮定は、①のように「突如として未来の終点が現れた」のではなく、「“神”としか言いようのない存在がもともと我々の世界ができる前から存在していて、その存在が時間という概念を作り、未来の終点を作り出した」というものです。
ここで本書の流れである妥当性について考えると、②の仮定を挙げたときも書いた通り、我々の考える領域を大きく逸脱する議論になってしまいます。この仮定から導けることはただ一つ。「神が存在する」というとても宗教的なものになってしまいます。しかも、それは100%誤りであると反論することができません。
なぜなら、我々が直接目にできたり装置によって観測できたりするような領域の話ではないですから。これ以上論じても、私の中でこの仮定に対する具体的な回答を示すことはできません。
そのため、②の仮定については本書で論じるのはやめようと思います。冗談の一つとしてとらえていただきたいのですが、宗教団体はこの②の仮定を神が存在する論理的な根拠とすることはできるかもしれません。
そんな話はさておき、以上に書いてきた理由から②について本書では「妥当ではない結論」として扱い、この仮定について締めくくります。
以上、今回は4つの点のうち2点について詳細な考察をしてみました。
次回は、後半の2点についても詳細な考察について述べていこうと思います。
華谷 忍
未来が過去を規定していると考えたら・・・?[3]
『華谷忍の妄想科学』。
科学的に正しくないことであっても、「こう考えたらどうなるのかな?」ということをただただ書き綴っていきます。
今回は第3回。
これを読んで、考えることって楽しい。って思ってもらえればうれしいです。
【目次はこちら】
前回までの流れは以下の記事をチェック
第1回目⇒未来が過去を規定していると考えたら・・・?[1] - 華谷忍の妄想科学
第2回↓
4つの壁(後半)
-
③時間は無限に続くので終わりはない。
そもそも、時間に終わりも始まりもなく、永遠に続くものである。①の仮定と同じように、時間について考察した時に真っ先に出てくる考え方ではないか。と思います。
誰しも、物事に終わりがあること(10代の自分はいつか終わるし、楽しいテレビ番組も長くて数時間後には終わってしまいますよね)は分かっていても、「時間」ということだけに限って考えてみると、今読んでいる方も含めて世の中の大多数の人が「時間という概念について考えたら、それは有限なものではなく無限である」と考えるのではないでしょうか。私自身も普通に考えたらそう思います。本書のようにいろいろと考えを巡らす過程で、普通ではない考え方をすることが多々あるわけですが・・・。
もし、時間が無限に続くとするならば、本書で扱っている考え方からくる「過去を規定する未来の存在」が曖昧になってしまします。
例えば、本書の「未来が過去を規定している」との仮定に立って考え、「ある時点の時間=x」とすると、「x=10年後」の時、xは「x-1=9年後」を規定していることになるのは分かると思います。しかし、時間を無限に続くものとして終わりがないとすると、その無限にある先を数式にしたらその時点の時間は「x=∞年後」になるわけです。前の10年ごと9年後の例のように、xが「x-1=∞-1年後」を規定していることになります。さて、「∞―1」って何でしょうか。限りなく大きな数から1を引いたところで、限りなく大きい数は限りなく大きい数です。“いわゆる数学”の常識として、「∞」に加減乗除をしても「∞は∞」ですよね。ここで分かる人は分かるのではないでしょうか。つまり、「x=∞」としたとき、xが規定する先の時間が無くなってしまうのです。それと合わせて、過去の側も規定される先の未来がなくなってしまいます。そもそも、有限の世界しか知らない人間が頭の中で考えたのが無限の世界なので、人間の考える世界ではこのように結論を出すことができないのも無理はないと思います。というわけで、③のこの仮定に立って本書のテーマについて考えると、我々の知りうる考え方では行き詰ってしまうことが分かります。
行き詰ってしまうこと。実はこれは重要なことです。行き詰ってしまうという事実が、この仮定について「未来が過去を規定するというのは誤りである」。「そもそも、この③の仮定が誤りである」。「この③の仮定は間違っておらず、この先の時代に数学的、物理的に証明される可能性がある」。「過去が未来を規定していると考えると、時間の始まりについて論じることができる以上、そもそも本書の仮定が誤りである」。と様々な可能性を考えることができるのです。
このように考えられる可能性をいくつも挙げて、何か考えたい対象の物事について検証をしていくということはとても大切です。
時間に終わりがない。このことについて、「そんなのわかっているよ」という声が聞こえてきそうですが、この仮定も本書では重要な仮定の一つなのでこの場に挙げてきます。
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④時間は途方もない未来まで行ったら、我々にとっての途方もない過去に戻る。
皆さんは有名な「ウロボロスの図」というものをご存じでしょうか。知っている方に説明は不要ですが、知らない方のためにまずこの図の説明から始めたいと思います。図自体は、蛇が自らのしっぽに噛みついていて環の形になっている図です。この図は、蛇の頭側が大きな尺度の世界。例えば、天体だとか相対性理論で扱う世界だとかを表しています。しっぽ側は、非常に小さな尺度の世界。例えば、原子だとか素粒子だとかそういう世界です。その頭としっぽが噛みつくことにより同一の場所にある。(蛇の口の中にしっぽが入りこんでいる=二つの世界が同一の場所にある。ということです)
詳しく書くと、宇宙が誕生したその瞬間の宇宙の大きさはものすごく小さかったのです。つまり、我々の住む宇宙で流れる世界の始まりが蛇のしっぽ側。素粒子、原子、微生物、動物、山、地球、銀河、グレートウォール(宇宙で最大の構造物で、地球から約2億光年離れているものです。正体は、多くの銀河でできた壁で大きさが数億光年にも及びます)と蛇の頭側に近づくにつれて大きくなっていきます。当然、大きなものほど後世に時間はかかります。そのため、ここでは蛇の頭側を時間の終わりとして考えてみましょう。少し考え方としては乱暴かもしれませんが、わかりやすく書くという本書の方針の一つに沿って話を進めていきたいので、この考え方で行こうと思います。
というわけで、時間の流れをウロボロスの図のように考えていくと、時間の流れは循環していて、「過去が未来を規定している」と考えたときも「未来が過去を規定している」と考えたときも結局、過去と未来は互いにつながっていると考えることができます。
つまり、本書で論じている「未来が過去を規定している」というテーマでは、結局のところ、未来をたどった先にあるものは過去となりますし、過去をずっと遡った先にあるものは未来となり、「未来が過去を規定している」し「過去が未来を規定している」と考えることができるようになります。つまり、本書のテーマは「過去が未来を規定している」に読み替えても差し支えないことになります。
このように、この仮定をもとに考えていくと、時間の流れが一方向に定まっていないことが明らかにわかります。
それでは、この仮定の議論は「未来が過去を規定している」とのテーマにそぐわないのでは?という声が聞こえてきそうですが、私はそうは考えません。「過去が未来を規定している」と考えているだけでは、決して「時間は循環しているのでは?」という考え方は出てこないように思えます。「未来が過去を規定している」と考え、既存の考え方と合わせて考えたときに初めて「時間は循環しているのでは」という仮定が出てきます。
そして、結果として「未来が過去を規定している」と考えたときも「過去が未来を規定している」と考えたときも得られる結果を互いに読み替えても何ら差支えのないことまでわかりました。
以上、今回は「時間の終点」について4つの壁のうち後半2つを述べました。
いかがでしたでしょうか?
次回は、詳細な考察について述べていこうと思います。
華谷 忍