華谷忍の妄想科学哲学

日々妄想した「もしこうだったら」「実はこうなのでは?」ということを徒然なるままに。非科学的であろうとも考えてみる。がモットー。

未来が過去を規定していると考えたら・・・?[4]

『華谷忍の妄想科学』。

 科学的に正しくないことであっても、「こう考えたらどうなるのかな?」ということをただただ書き綴っていきます。

 

 これを読んで、考えることって楽しい。って思ってもらえればうれしいです。

 

 今回は第4回。

 いよいよ詳細な考察に入っていきます。

 詳細な考察をする対象の「4つの壁」については前回と前々回の記事を参照ください。

前々回→未来が過去を規定していると考えたら・・・?[2] - 華谷忍の妄想科学

前回↓

shinobu-hanaya.hatenablog.com

 

 

【目次はこちら】

 

 

 

<詳細な考察>

 さて、ここまで本書のテーマである「未来が過去を規定している」と考えたときにどうしてもぶつかる壁である「時間の終点」について、4点の仮定を挙げ、それぞれについて述べてきました。

 ここから、本書のテーマが妥当な結論を導くことができているのか。について考察していきたいと思います。

 

①「時間の果てにあるものは「無」である」について

 まず、①の時間の未来の方向にあるのは、ただ「無」であるというものでしたが、「無」とはいったいどのようなものでしょうか。答えは簡単で、本当に何もない。ということです。したがって、「“無”がある」という言い方自体が適切ではないことになります。無いのにあるというのも変な話ですからね。

 ここで一つの疑問が出てきます。「未来が過去を規定している」との本書での糧に基づけば、未来に時間をたどっていけば必ず何かしら規定する大元のものがあるはずです。あるはずなのに、「“無”である」との仮定を持ち出してしまうと矛盾が生じてしまうのではないかというものです。

 この疑問は確かに、言われてみればそう思ってしまうものです。しかし、この疑問に対しては意外と現在ある考え方を応用し考えてみることで、①の仮定が必ずしも100%間違いではないことが分かります。

 それでは、現在ある考え方とは何でしょうか。それは、本書でも出てきている「ビッグバン」です。簡単に述べるのなら、ビッグバンは、宇宙の始まりは一点に集中した状態で、そこから爆発したかのようになり現在でも膨張を続けているであるとの理論です。

 厳密にいえば、ビッグバンは「無から有が生まれた」という理論ではないのですが、時間の未来の果てにもこのような点があっても良いのではないのでしょうか。つまり、既存の考え方をただ何も考えずに当てはめるだけでも、「時間の未来の果てにはすべての時間を規定する何か一点がある」という考え方ができなくもない。ということです。

 ちなみに、ビッグバン理論に出てくる「点」について、それがどのように生じたかについては物理学の世界でもはっきりしていないところではあります。ただ、ここで考える点は、膨張したり拡張されたりする前の点です。

 数学的に「点」というものの面積はゼロです。確かに、紙に点を打てば目に見えるものになりますがそれは便宜的にそうしているだけであって、点に面積はありません。「点は無でもある」と言えるのかもしれません。もっと言えば、「線」も本来は面積を持ちません。

 そのため、もしかしたら時間の未来の果てにあるものは「線」かもしれません。①の仮定のように、完全に無である。とは言い切るのは難しいのですが、限りなく無に近いものを時間の未来の果てに垣間見ることはできるわけです。

 この点で、①の仮定は必ずしもありえない仮定ではないということが分かります。

 

② 時間の果てには「神」のような何かしらの超常的な力を持った存在がいて、その存在が時間を規定している。

 次に②の仮定についてみていきましょう。繰り返しになりますが、この仮定で私がはっきりさせておきたいのは、この仮定に出てくる「神」というものは、必ずしも宗教的な「神」とは違うものであるということです。この仮定のたどりついた超常的な存在を説明する概念について、我々が持っているその表現方法としての「神」です。決して、宗教的な話をするつもりはないので、そこは改めてはっきりさせておきたいと思います。

 ②で重要なのが、過去を規定する存在である未来について考えたとき、そこに終点を明らかに設定すると、どうしても説明ができない領域にまで行ってしまう。ということです。①の仮定でも終点を設定していますが、それはあくまで我々の知っている概念の応用で考えていったものなので、形があるもの(“無”という形だとしても)として認識できるとして考えています。

 ②のこの仮定は、①のように「突如として未来の終点が現れた」のではなく、「“神”としか言いようのない存在がもともと我々の世界ができる前から存在していて、その存在が時間という概念を作り、未来の終点を作り出した」というものです。

 ここで本書の流れである妥当性について考えると、②の仮定を挙げたときも書いた通り、我々の考える領域を大きく逸脱する議論になってしまいます。この仮定から導けることはただ一つ。「神が存在する」というとても宗教的なものになってしまいます。しかも、それは100%誤りであると反論することができません。

 なぜなら、我々が直接目にできたり装置によって観測できたりするような領域の話ではないですから。これ以上論じても、私の中でこの仮定に対する具体的な回答を示すことはできません。

 そのため、②の仮定については本書で論じるのはやめようと思います。冗談の一つとしてとらえていただきたいのですが、宗教団体はこの②の仮定を神が存在する論理的な根拠とすることはできるかもしれません。

 そんな話はさておき、以上に書いてきた理由から②について本書では「妥当ではない結論」として扱い、この仮定について締めくくります。

 

以上、今回は4つの点のうち2点について詳細な考察をしてみました。

 

次回は、後半の2点についても詳細な考察について述べていこうと思います。

 

 

華谷 忍

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