華谷忍の妄想科学哲学

日々妄想した「もしこうだったら」「実はこうなのでは?」ということを徒然なるままに。非科学的であろうとも考えてみる。がモットー。

未来が過去を規定していると考えたら・・・?[2]

『華谷忍の妄想科学』。

 科学的に正しくないことであっても、「こう考えたらどうなるのかな?」ということをただただ書き綴っていきます。

 今回は第2回。

 

 これを読んで、考えることって楽しい。って思ってもらえればうれしいです。

 

【目次はこちら】

 

未来が過去を規定していると考えると?

 前回の最後で、「未来が過去を規定している」という仮定をもとに議論を進めると書きましたが、「いったいこいつは何を言い出すのだ」と思ったかと思います。具体的な想定をしていませんから当然です。ですので、ここで「未来が過去を規定する」とはどういう状況か?ということを簡単に述べておきたいと思います。

 ここで、前回の記事に出てきたドラえもんの例を考えていきます。

shinobu-hanaya.hatenablog.com

 

 前回の記事の通り過去が未来を規定していると考えると「のび太が結婚して、子供、孫と子孫をつないでいったから結果としてセワシ君が存在する」となりますが、未来が過去を規定しているとの仮定から考えるならば、セワシ君が存在するということは、先祖であるのび太が結婚して子供、孫と子孫をつないでいるはずだ」となります。確かセワシ君はのび太の玄孫だったと思いますので、その玄孫のセワシ君の時代を支点に、未来が過去を規定するとの言葉通り、過去へと遡るのであれば、

 

 セワシ君が存在する⇒セワシ君の母親がセワシ君を生まなければならない⇒そのためには、セワシ君の両親が結婚している必要がある⇒セワシ君の両親が結婚するためには、二人が存在していて、なおかつ出会わなければならない⇒セワシ君の両親が存在するということは、セワシ君の祖父母に当たる人間が2組互いに結婚をして、セワシ君の両親を各々生まければならない⇒セワシ君の祖父母が存在するということは・・・(以下、同じように続きます)・・・⇒つまり、のび太が存在しているのはセワシ君が未来に存在をしているからだ。

 

 と説明できるわけです。つまり、ある過去の状態が存在するためには、その時点から見て未来に何かしらの現象が起きていないとならないわけです。

 

 ドラえもんの例と同じく先ほど出てきたニンジンの例でいうのならば、カットされた状態のニンジンがそこに存在するためにはカットされていなければならない。未来のカットされたという状態が、過去のカットするという行為を規定しているのです。

 

 なかなかにわかりづらくなってきましたね。言葉遊びのようですが、「○○をしたから、あとで□□になった」と考えるのではなく、「□□という状態が存在している。ということは、○○という行為が行われなければ□□という状態は未来に存在しない。つまり、未来の□□という状態が過去の○○という行為を規定しているのだ」ということです。記号で書くとわかりますが、最初に来る記号と最後に来る記号が二つの考え方で違うと思います。過去が未来を規定していると考えたときは、最初は○○⇒最後が□□ですね。一方、未来が過去を規定していると考えたときは、最初は□□⇒最後が○○ですよね。逆に考えているわけです。

 

 

 

 

4つの壁

 ところで、「未来が過去を規定している」との前提に立って話を進めると、どうしてもぶつかる壁、問題が存在します。

 

 その問題は、「時間の終点」に関することを考えると見えてきます。

 

 従来の議論では、一般的に何かしらの「始まり」について考えることで考察の対象となるものについて考えていきます。もちろん、終わりから逆算する例も多くありますが、特に本書で扱っている「時間」については、一般的には「始まり」のほうを考えがちです。しかし、前述のようにここでは「未来が過去を規定している」との考えのもと、終わりについて大きく3点に分けて議論したいと思います。

その前に、人間の誕生を例とすると、例えばアダムとイブのように人類の始まりとされている1組の男女に未来からたどっていったい場合、その「未来」にあるのが何かと考えるようにして読み進めていくとわかりやすくなるかもしれません。ということを付け加えておきます。

 では、4点を最初に挙げた後に議論をしていこうと思います。

 

①時間の果てにあるものは「無」である。

②時間の果てには「神」のような何かしらの超常的な力を持った存在がいて、その存在が時間を規定している。

③時間は無限に続くので終わりはない。

④時間は途方もない未来まで行ったら、我々にとっての途方もない過去に戻る。

 

 これから、この4点について具体的に議論をしていきたいと思います。すべてを一気に書くと長くなってしまうので、今回は②までを述べていきます。

 

①時間の果てにあるものは「無」である。

 これは、「過去が未来を規定している」との考えと同じ結論の一つですね。「未来が過去を規定している」との考えに立って考えたときに、どうしても大元の規定しているものの存在が必要であることは、皆さんもわかるかと思います。何もないところから“規定するものが”出てくる。ただ、始まりにおける「ビッグバン」のようにこれといった終点が、この仮定からは考えることが難しくなります。

 あるとしたら、鉄道のように視点から始まり、長く続いた先に終点があるとするならば、我々の過ごす時間は「何かしらの形で終わり」を迎えることになります。その終わりがどのような終わり方をするのか我々には想像もつきませんが、存在すると考えることは可能ですよね。この終点があると考えた場合の仮定が次の②に該当するのでここでは論じません。無が存在しているというものは、あくまで仮定であり、なおかつ時間という概念の定義そのものにもよりますが、そもそも時間の終点自体を規定するのが間違いで時間は宇宙の寿命とは関係なく、永遠に流れ続けているものかもしれません。ただ、物事はいつか終わりを迎えるという点から「未来が時間を規定している」ということを考察すると、③のものと同じように真っ先に得られるものの一つがこの仮定、結論だと思います。

 

 ②時間の果てには「神」のような何かしらの超常的な力を持った存在がいて、その存在が時間を規定している。

 本書は、決して宗教的なことと結びつけるつもりで書いてはいません。しかし、我々も人間です。想像もつかないような環境について考えを巡らせたとき、どうしても結論の一つとして出てくるのが“神”や“仏”などの超常的な存在だと思います。私たちの子供が存在するためには、我々が必要である。私たちの子供の存在が、私たちの存在を必要とし、そうたらしめている。では、最初に規定している存在は?となっているのが、ここでの議論ですが、一つの回答として“神”や“仏”の存在もあってはいいのではないでしょうか。

 しかし、この仮定は科学的な考えではありません。神や仏の存在など科学的なものではないし、科学の世界に宗教を持ち込むこと自体がナンセンスです。あくまで、“時間”について哲学的に考察した時の結論の一つであるという風にしてとらえてください。この仮定について“神の領域”である以上、私はもちろん我々は何かしらの考えを巡らせることはできませんから。ただ、この仮定の重要な点は、もし本書で考えている「未来が過去を規定している」という考え方が科学的に普遍的に正しいことが立証され、なおかつ「何をどう考えても、時間を未来方向に見たときの終わりには“神”がいる。と考えないと計算が合わない。むしろ、そう考えるのが妥当である」というような結論が出るとしたときに見えてきます。そう、「神」の存在を科学で認めざるを得ない状況になってしまうのです。

 もちろん、その「神」が「宗教でいうところの“神”」と同じ存在かどうかは分かりませんが、そういう結論も現時点で100%の反論をできないという意味では本書の考えに最も合っているような結論であるような気がします。ただ、本書は宗教と科学をなるべく切り離して考えたいことに加え、前述のように“神の領域”について我々人間が考えを巡らせることはできません(できたつもりになっても、本当に“神の領域”がどのようなものかを知る人はいないという意味での、考えをめぐらすことができない。という意味合いです)から、この場でのこれ以上の議論は控えたいと思います。

 

 以上、今回は「時間の終点」について4つの壁のうち2つを説明したところで終わりとさせていただきます。

 

 いかがでしたでしょうか?

 

 次回は、残りの2つについて述べていこうと思います。

 

 

華谷 忍