華谷忍の妄想科学哲学

日々妄想した「もしこうだったら」「実はこうなのでは?」ということを徒然なるままに。非科学的であろうとも考えてみる。がモットー。

未来が過去を規定していると考えたら・・・?[5]

『華谷忍の妄想科学』。

 科学的に正しくないことであっても、「こう考えたらどうなるのかな?」ということをただただ書き綴っていきます。

 

 これを読んで、考えることって楽しい。って思ってもらえればうれしいです。

 

 今回は第5回。

 前回からの詳細な考察。

↓前回の記事↓

shinobu-hanaya.hatenablog.com

↓それ以前の流れが気になる方はこちら↓

未来が過去を規定していると考えたら・・・?[1] - 華谷忍の妄想科学

未来が過去を規定していると考えたら・・・?[2] - 華谷忍の妄想科学

未来が過去を規定していると考えたら・・・?[3] - 華谷忍の妄想科学

 今回は「4つの壁」のうち③について書いてみようと思います。

 

【目次はこちら】

 

<詳細な考察-③について->

 では、③についてはどうでしょうか。前述の仮定の列挙の際に論じたように、無限に続くと考えるとどうしても「∞」の概念について考えなければなりません。すると、未来の終点にあるはずの“大元の時間を規定するもの”について考えることが非常に困難になります。

 ∞+1年後が、∞年後を規定していると考えたとしても、無限大に1を足したところで無限大は無限大。つまり、数学的に全く差がないもの同士が規定し、規定されてしまうわけです。数直線上で見たときに位置が変わらないところに前も後もありません。これも、書いた通りですね。さて、それでは議論をもっと先へ進めていきましょう。

 

 『行き詰ってしまうこと。実はこれは重要なことです。行き詰ってしまうという事実が、この仮定について

1:「未来が過去を規定するというのは誤りである」

2:「そもそも、この③の仮定が誤りである」

3:「この③の仮定は間違っておらず、この先の時代に数学的、物理的に証明される可能性がある」

4:「過去が未来を規定していると考えると、時間の始まりについて論じることができる以上、そもそも本書の仮定が誤りである」

と様々な可能性を考えることができる』

 

 という風に③の仮定を挙げたときには書きました。この様々な可能性について考えなければ、本書のテーマとする妥当性を導くような議論に発展をしません。

 

1:「未来が過去を規定するというのは誤りである」

 一つ目の「未来が過去を規定しているというのは誤りである」という可能性について。③の仮定のみで本書のこのテーマを考えるとそうなるのは納得のできる結論です。なにせ、考えが行き詰ってしまうのですから。逆に、宇宙の始まり。つまり、我々の知る時間の概念の始まりについてはビッグバン説で説明ができるのですから。

 未来についても、ビッグバンと同じく“端=未来で時間が終わりを迎える瞬間”があるとの考え方に立てば、行き詰りませんが、③の仮定はそうではなく無限に続くものとして議論をしていますので、やはり考えは進みません。すると、「過去が未来を規定している」と考えた方がずっと納得できるような結論を導くことができるわけです。

 

2:「そもそも、この③の仮定が誤りである」

 二つ目の「そもそも、この③の仮定が誤りである」という可能性について。一つ目の可能性と同じく、「時間が無限に続く」と考えて、本書のテーマである「未来が過去を規定している」という仮定に反するのであれば、本書のこの議論においては「未来が過去を規定している」というものを曲げることはできないので、その通り、「③の仮定が誤りである」といわざるを得ません。

 

3:「この③の仮定は間違っておらず、この先の時代に数学的、物理的に証明される可能性がある」

 三つ目の「この③の仮定は間違っておらず、この先の時代に数学的、物理的に証明される可能性がある」。これにういては、無限大という概念をどうとらえるかによりますが、今まで敢えて出していなかった考え方をしてみると、この仮定の下でも少し考え方を進めることができます。例えば、はるかに未来の西暦y年があったとしましょう。何千年とか言う単位でも、何億年とか言う単位でも何でも構いません。

 ここで重要なのは、y=∞ではないという点です。「“無限大”ではなく“はるかに未来”」です。もし、西暦y年が西暦y+1年に規定されていると考えるとしましょう。これは納得できますよね。これは、はるかに無限に遠い未来についても、その時の2年間だけを切り取って考えることで議論が可能です。

 さて、勘が良い方は気が付いたかもしれません。この議論は、

「時間の終点を無限大と考える」のか、「時間は無限大の方向に流れている」と考えるのか

の差です。

 「x=∞」と考えるのではなく、「xを時間と考えたときに、lim┬(x→∞)⁡」と考えるのです。(極限の概念についていきなり出てきましたが、これは許してください。気になる人は、極限のlimについて調べてみてください)すると、後者の場合では時間の終点は∞に同じになることはありません。

 あくまで、∞の方向にひたすらに永遠に流れ続けるだけです。すると、本書の「未来が過去を規定している」というものが、先ほどの西暦y年の例で説明ができるようになりますよね。
 ほら、無限の概念を少しだけ克服できた気がしませんか?少しだけ、考え方を変えたり、拡張したりするだけで、見えてくる世界に変化が出ることは分かったと思います。ということは、もしかしたらx=∞についても扱える日が来るかもしれません。

 もちろん、私は高度な数学を扱える知識は持ってはいませんが、x=∞についてそこに前後をつけるというのは非常に難しいと思います。もしかしたら、不可能かもしれません。

 ただ、ここで不可能と決めつけてしまうのは柔軟な思考力を奪うことになってしまう(本書の趣旨に反してしまう)ので、可能性があるとして本書のここでの議論としては終わりにしておきます。

 

4:「過去が未来を規定していると考えると、時間の始まりについて論じることができる以上、そもそも本書の仮定が誤りである」

 四つ目の「過去が未来を規定していると考えると、時間の始まりについて論じることができる以上、そもそも本書の仮定が誤りである」について。

 これも、この前の三つ目の可能性で論じていることを抜きにして考えた場合に出る可能性です。乱暴な言い方をしてしまえば、

「従来通り、一般的に考えられている“過去が未来を規定している”と考えて、我々の時間(宇宙)の始まりがビッグバン説などで説明できるのだから、それでいいじゃないか。ましてや、“未来が過去を規定している”と考えたときのほうが無限の概念が出てきて扱いに困るのなら、なおさら“過去が未来を規定している”と考えたほうがいいではないか」

 ということを、この可能性では言いたいわけです。

 ここまでさんざん「未来が過去を規定している」と述べてきた本書ですが、当たり前の常識的な思考をもって考えれば「至極当然に出てくる可能性」であるといえます。

 

 

以上で今回は終わりにしたいと思います。

 

次回は、「4つの壁」の4つ目について詳細な考察をしていきます!

 

 

華谷 忍

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