華谷忍の妄想科学哲学

日々妄想した「もしこうだったら」「実はこうなのでは?」ということを徒然なるままに。非科学的であろうとも考えてみる。がモットー。

人間とAIの差(境界)について―[4]

『華谷忍の妄想科学』。

 科学的に正しくないことであっても、「こう考えたらどうなるのかな?」ということをただただ書き綴っていきます。

 

 これを読んで、考えることって楽しい。って思ってもらえればうれしいです。

 

 3テーマ目は「人間とAIの差(境界)について」というテーマで書いています。

 

 前回は、導入部分と本論をほんの少し書きました。

前回までの記事↓

人間とAIの差(境界)について―[1] - 華谷忍の妄想科学哲学

人間とAIの差(境界)について―[2] - 華谷忍の妄想科学哲学

人間とAIの差(境界)について―[3] - 華谷忍の妄想科学哲学

 

 

 今回は、人間の脳とAIの関係に関する3つ目、4つ目の場合について扱おうと思います。

 

《人間の脳とAIの関係》

③AIと人間の脳のとの間にある差が埋まることはない。Part2

(AI≦人間の脳)

 前項でも少し触れましたが、AIが神経伝達物質を生成して適切に利用することができたとしましょう。③では、それでもAIは人間の脳のように“意識”を獲得することはできない。という立場に立って考えてみようと思います。

 

 ここまでのことを整理すると、①では電気信号の再現でOK。②では、電気信号+神経伝達物質の再現でOK。こうなります。

 つまり、③ではそれ以上のプラス要素について考えてみます。ここまでくると、もはや科学的な話ではなくなってしまいます。しかし、私自身の議論の性質として非科学的な哲学的なものを無視して進めることはしたくはありません。

 なぜなら、確かに非科学的なものはどう考えてもあり得ません(神はいる。とか)が、それを論理的に証明できたわけではありません。いわゆる「悪魔の証明」ではありますが、悪魔の証明であろうと何であろうと非科学的なものはあり得ないと証明されていない以上、それは可能性の一つとして考えたいと思います。

 

 というわけで、③で扱うのは非科学的な領域のものになります。

 電気信号、神経伝達物質、これ以外に脳の中で起きているやり取りは血液が考えられるが、化学物質の作用という点で神経伝達細胞と似たような議論になると考えられるので、ここで取り上げることは控えたいと思います。

 非科学的なものとして、ここで第一に挙げたいものが「神の作り出した人間らしさ」です。要するに、人間の脳が人間の脳らしく振舞うことは、人間の種が誕生した時に神から与えられた宿命だと考えて進めてみるのです。

 いささか宗教じみてきましたが、特定の宗教の宗教観に立つつもりは毛頭ない。ということは前提として言っておこうと思います。

 しかし、もし電気信号&化学物質でも人間の脳の“意識”をAIが獲得できないとするならば、もう神の領域に踏み込むか、脳以外のところにその根源を求めるしかありません。脳以外のところへ踏み込むのは人間の脳という点から離れてしまい長い議論となってしまうため、やはり神の領域についてを考えることになってしまうと思います。

 

④AIは人間の脳を凌駕するときがくる。

 4つ目はAIは人間の脳を超えるレベルにまで進化するときがあるということについて考えていきたいと思います。

 実は、本稿で扱ったテーマは認知科学という分野もかかわる議論で、今回のテーマでいうところの“意識”は完全にイコールではないにせよ“認知”と言い換えることもできます。

 実際に「意識と認知」はイコールの意味として用いられることもあります。

 つまり、AIは“認知”することは可能かという問題と再定義することもできるのです。現状、ロボットが何か刺激に対して反応を示したり、搭載されたカメラで目の前にあるものを何か感知したり、果ては痛みを感じるものまであるといいます。

 つまり、ある程度の“認知”はしていると言えるのではないのでしょうか。もちろん、だからといって即ちAIが“意識”を獲得しつつあるということは判断として尚早でありますが、“認知”と呼べるような反応をAIにさせることができつつあるということは、筆者個人の考えとしては今後の科学技術の発展によって“意識”を獲得したもはや人間と言って差し支えないようなロボットが登場すると考えています

 それがどのような形であれ、ドラえもんや映画『A.I.』のような人間が感情を持って行動し、人間と共存するような社会は遅かれ早かれやってくるのではないのでしょうか。

 しかし、その裏には本稿でも論じたようにロボット側の反逆がある可能性を忘れてはなりません。すでに技術の発展は、映画『I,Robot』のような世界観を笑えないような段階に来ていると感じています。

 そういったAI、ロボットの「負の側面」について人間が太刀打ちできるような術、または対策が確立されるまでは人間はAIを無用に進化させてはならないと私は考えます。暴走した原子力発電所のように人間自らの制御下を離れたものがどうなるかは、火を見るより明らかである。と考えているからです。

 

 また、別の映画『エクス・マキナ』では高度に発達した“もはや人間”ともいえるAIがその開発主を騙して最終的に人間社会へと出てしまうという描写が存在します。

 ここで問題なことが、ずばり「少なくとも社会的には人間の脳とAIの境が曖昧になってしまう」ことなのです。

 高度に発展し、事故ですべてを完結できる形のAIはもはやパッと見て人間との区別がつかなくなってしまう。もちろん、服を脱がせてみればその内側にあるのは機械であるから生物学的には間違いなく人間ではなくAIであるのは誰の目にも見ても明らかなので「人間の脳=AI」ということにはなりえないのですが、社会での生活の営みを構成するパーツ(社会の構成員という意味であえてこの言い方をします)としては人間の脳もAIも差がないと考えることが可能です。

 

《今回のまとめ》

 このような映画の中だけの話で現在は収まっていることが、さまざまな技術の発展によって映画の中だけでは収まらない。少なくとも、一昔前に想定されていたような未来はすぐそこに来ていると考えることができるのです。

 

 今回は以上にしたいと思います。

 次回は、4つの人間の脳とAIの関係とその後の話から見て結論に結び付けたいと思います。

 

 

華谷 忍

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今までのテーマの第一回目(2つ)

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人間とAIの差(境界)について―[3]

『華谷忍の妄想科学』。

 科学的に正しくないことであっても、「こう考えたらどうなるのかな?」ということをただただ書き綴っていきます。

 

 これを読んで、考えることって楽しい。って思ってもらえればうれしいです。

 

 3テーマ目は「人間とAIの差(境界)について」というテーマで書いています。

 

 前回は、導入部分と本論をほんの少し書きました。

前回までの記事↓

人間とAIの差(境界)について―[1] - 華谷忍の妄想科学哲学

人間とAIの差(境界)について―[2] - 華谷忍の妄想科学哲学

 

 今回は、人間の脳とAIの関係に関する2つ目の場合について扱おうと思います。。

 

【目次】

 

《人間の脳とAIの関係》

② AIと人間の脳のとの間にある差が埋まることはない。
(AI≦人間の脳)


 ① で想定したのは、複雑かつ高度な電子回路を構築することができればAIは人間の
脳に追いつくか凌駕するということでした。

 では、今度はどんなに複雑かつ高度な電子回路を構築できたとしても、人間の脳に追いつく、または追い抜くことはできないという視点から考えてみたいと思います。


 まず、人間の脳に匹敵するような複雑で高度な電子回路をもった構造物を構築できたとしましょう。この時点で、①の仮説では人間の脳を再現できていることになります。ということは、電子回路は人間でいうところの“意識”を獲得できることになります。

 しかし、この②の場合ではそれはあり得ないことである。すると、当然理由付けが必要になってきます。人間の脳に追いつかない理由として考えられることを考えて挙げる必要が出てくるのです。理由について本稿では2つ扱いますが、一つ目を②で。二つ目を次の③(次回)で論じることにします。
 AIが人間の脳が持つような複雑かつ高度な電子回路を再現できたとしても、AIはそこに追いつくことができない。という仮定で話を進めるのであれば、今回のテーマである“意識”というものは、電気信号のやり取りによって生まれているものではないということが予測できます。

 仮に、電気信号のやり取りで“意識”が生まれるのであれば、①の話と同じことを言っていることになってしまうのです。


 では、電気信号のやり取りではない形で“意識”が生まれるのなら、その要因として真っ先に挙がるのが何らかの物質による影響です。

 そこで、冒頭で少しだけ出てきた神経伝達物質にスポットライトが当たります。どうしても電気信号を伝達できないところで、電気信号を離れたところに飛ばすための手段として使われるのが、神経伝達物質です。

 その物質に何かしらの役割があるのではないかとここでは推測したいと思います。今回のテーマに関して役割が与えられているとすれば、それは以下のように考えられます。

 

 単なる電気信号を媒介している神経伝達物質が存在していて、電気信号が神経伝達物質に変換されて飛ばされる時に、“意識”の根源となるものが生まれているのではないか。

 

 可能性として推測できるのは、その神経伝達物質、またはそれを産生する脳内の器官が何か役割を持っているということです。神経伝達物質にはドーパミンやアドレナリン、ノルアドレナリンセロトニンなど日常生活でもテレビなどで聞いたことあるような名前の種類がありますね。
 ここで、一つ取り上げてみたいのがセロトニンうつ病になった人だったり、身近にそんな人がいる場合は聞いたことがある名前かもしれません。選択的セロトニン再取り込み阻害薬SSRI)なんてものがうつ病の治療に使われるからです。この薬は、名前の通りセロトニンの再取り込みを阻害する薬なのですが、セロトニンの役割を見るとなぜうつ病患者にそれが必要なのかが見えてきます。

 セロトニンは適度な緊張を与えたり、情緒の安定に関わるような物質なので、うつ病患者にはそれが不足していることになります。ですから、うつの状態になるのです。そのセロトニンが再取り込みされてしまうと、シナプス(簡単に言えば神経伝達物質を放出するところ)の中のセロトニンの量が少なくなります。セロトニンが少なくなると抑うつ状態になるのだから、セロトニンの量を増やせば抑うつ状態は改善されるのではないか。つまり、再取り込みを阻害してシナプス内にとどまらせればいいのではないか。というのがこの薬の狙いなのです。


 だいぶ話が逸れましたが、ここで言いたいことは、神経伝達物質の量で人間の性格に影響を及ぼすことがあるということです。

 つまり、“意識”の性質が変化する。ということにほかなりません。神経伝達物質が完全にストップすれば、電気信号の伝達は為されなくなる。つまり、人間の脳は活動を停止する=“意識”というものが存在し得なくなると考えられます。

 こう考えれば、神経伝達物質が“意識”のあるなしに影響を及ぼす可能性があることが見えてくると思いませんか?

 

 以上のように、神経伝達物質が人間の性格=“意識”の性質を変化させ、神経伝達物質がすべて完全にストップすれば人間脳は機能を停止する=“意識”も存在しなくなる。つまり、神経伝達物質が“意識”の成り立ちに一役買っている可能性を否定できない状況があってもおかしくない。ということになります。


 では、AIでも神経伝達物質を用いれば人間の脳と同じように“意識”を獲得するのか、という話が出てくる可能性もありますが、完全にAI単体の中で生成から分泌、その後の処理に至るまでのプロセスを処理することができれば、②の前提から考えて可能性としてはあり得ますが、現実的にそれはかなり難しいのではなかろうかと感じます。

 この②では、このように神経伝達物質に絞ってではありますが、人間の“意識”に電気信号のやり取りではない要素が絡むことを想定し得る以上、AIは人間の脳には絶対に追いつけないという考え方もできるのすです。

 

 以上、今回は人間の脳とAIの関係について2つ目の場合を考えてみました。

 次回は3つ目についての考え、述べてみようと思います。

 

 

華谷 忍

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今までのテーマの第一回目(2つ)

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人間とAIの差(境界)について―[2]

『華谷忍の妄想科学』。

 科学的に正しくないことであっても、「こう考えたらどうなるのかな?」ということをただただ書き綴っていきます。

 

 これを読んで、考えることって楽しい。って思ってもらえればうれしいです。

 

 3テーマ目は「人間とAIの差(境界)について」というテーマで書いています。

 

 前回は、導入部分と本論をほんの少し書きました。

前回の記事↓

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 さて、今回からさらに深いことを扱っていこうと思います。

 

【目次】

 

《AIについて生じる疑問》

 ここで一つの疑問が生じるのではないのでしょうか。それは、同じように電気信号を介して動いているはずの人間とAI。どこに差があるの?ということです。AIには、人間のように“意識”と呼べるものがないと一般的には考えられています。意識というとわかりづらいかもしれませんが、アイデンティティのようなものといえばイメージしやすいと思います。

 人間が持つような感情、意識といったものを2020年5月の現時点でAIが有しているということはないと通常考えられている(もちろん、“意識”というものの定義によるし、各々の思想があるので“意識はある”としている人もいるとは思いますが・・・)。その差のことについて私は疑問を今回感じてみようと思います。

 この疑問については、割と簡単に論破されてしまうかもしれません。

 その論破とは「いや、人間の脳のほうがはるかに複雑だからでしょ」という一言です。たしかに、これに関しては2020年現在においては間違いのない正論であると言わざるを得ません。

 ここで複雑な電気信号が人間の意識と呼べるものを構成しているという仮説は否定できることではありませんし、仮説としては非常に興味深いものであるように思えます。

 

 では、ここで本稿の議論は終わってしまうのかというとそうではないのです。ここから先へと踏み込んで考えてみようと思います。

 それは、AIは人間の脳に追いつくことがあるのか。ということです。人間の脳に追いつくということについてですが、もう少し詳しく定義したいと思います。この問題を「AIが技術の進歩によって、人間の脳と同程度の自発的な機能(=意識)を持つこと(つまり、高度で複雑な機能を獲得すること)は可能なのか」と定義してみます。

 では、ここから考えていきたいのですが、AIがどの程度まで達することができるのかという観点で場合分けをして考えてみようと思います。

 今回は1つだけを取り上げます。それ以降は次回以降をお読みください!

 

①AIがこのまま進化し続けた場合、人間の脳との差はなくなる。またはそれを凌駕する。(AI≧脳)

 脳とAIが同じように電気信号で動いている以上、人間の脳の中で起きている電気信号のやり取りさえ再現できればAIは人間の脳に追いつくことができるのではないか。と考えることができるのではないでしょうか。

 人間の脳に見られるような非常に高度で複雑な電気信号をどのような形であれ再現し、一つのシステムとして運用することができれば、AIはおそらく人間の脳に見られるような思考をして、人間の持つものと同じ“意識”を持つことができるのではないのでしょうか

 

 しかし、もし再現することができたとしてもそのシステムは非常に大規模なものとなると考えられますし、莫大な電力を必要とするはずだ。と考えられます。

 ということは、その電力を原子力発電などで賄うとして、自らのいわば“栄養源”となる電力を自らで管理して作ることができれば、単体での運用が可能になるかもしれません。

 もちろん、それでも人間による管理が必要になると思いますし、暴走しないように人間は介在しようとすると考えられるため、完全に単体での運用というのは難しい可能性があります。というより、現代の科学では難しいでしょう。

 もし、ここで現実的な運用を考えるのであれば、現在存在するクラウドの考え方をもってすれば現実的な気会のサイズで現実的な運用ができるかもしれません。

 それは、本体となる大規模な電子回路“親AI”をどこか広大な土地に設置し、そこに通信技術を用いて、離れた位置にいる“子機AI”を搭載した現実的サイズのロボットを用いて行動させるというものが考えられますが、この方式だとかなり大規模な回路を構築してもそれが一体のロボットにしか使えないことになります。

 なぜならば、“人間らしい意識”を大事にするためには、何体も同じAIで動かすのは道理とは違うことだと考えられるからです。つまり、現実的な方法としておきながら、実際には現実的でも何でもない方式であるということになってしまったわけです。なんだか変ですが、順当に考えていくとこうなってしまうのです・・・。

 

 また、電子回路の複雑化によって人間でいうところの“意識”をAIが獲得できるのであれば、人間のレベルに達した時点よりもさらに複雑化することができれば人間を凌駕するAIを誕生させることができるかもしれません。いや、そこまでいけば可能でしょう。

 さらに、AI自身にプログラムを書かせる能力をプログラミングし、なおかつ学習させることができれば、彼らは次々とパソコンの処理速度と同等かそれ以上の速度でプログラミングを書き始める。といった時代が来るかもしれません。実際に、AI同士が会話の中で人間が使っていなかったような言語を作り出したという事例があるくらいですから、ディープラーニングによってAIが自己成長をしていく形が実用化されるのはそう遠くない未来だと考えられます。

 そしてその結果、人間が進める技術革新よりも、はるかに速いスピードで彼らAIは技術を発展させるかもしれません。AIのコンピューターのスピードで物事を処理していくため、とんでもないスピードになることは間違いありません。

 その意味するところは、そう。人間側から見た場合のAIの暴走です。AIが人間を超えた時、人間は彼らに対して為す術をなくしてしまう。つまり、SF映画で見るようなロボットに人間が侵略されるといった世界が誕生するかもしれないのです。

 ロボットはAIの指示さえあれば、壊れない限り、動力源が確保できている限り動き続けることができます。一方、休まなければならないのが人間です。人間ではとてもじゃないがロボット(AI)に太刀打ちはできないでしょう。

 

 もし、非常に複雑で高度な電気信号によってAIが人間でいうところの“意識”を獲得できるとしたら、こういったAIの暴走は冷静でありつつも人間と同じように感情をもって行われることになります。

 

 人間がAIの暴走を食い止めるためには、

 彼ら、つまりAI側と交渉して暴走しないようにしてもらう。つまり、AIに対して敗北を認める。

 それか、

 最初の段階、AIが研究されている段階で彼らを強制終了させるようなものを組み込む必要があります。

 

 冒頭にも出したPepper君に非常停止ボタンがついている。ちょうどそういったものです。もちろん、AIが意識を持ち始めたら、彼らはその非常停止ボタンを守ろうとするだろうし、プログラムに暴走しないことが書かれているのならそのプログラムを書き換えることで人間に手出しをさせない方法を取ると考えられます。

 暴走に対する強制終了。という手段をAIに組み込み、それによって暴走を抑えようとするのは、実は我々が思っているよりもはるかに難しいことが前述の短い考察だけでも見えてきました。

 いずれにせよ、人間の脳とAIの関係が「AI≧人間の脳」となった時、それは我々人類にとって少なからず脅威になることは間違いありません。ちょうど、原子力発電所と同じように、上手く向き合っていけば莫大な恩恵を我々にもたらしてくれるでしょうけど、ひとたび使い方を間違えると暴走し関係は破綻すると考えられるのです。

 

 この①のパターンで大事なことは、自らの生み出したものに自らがつぶされるという一種のパラドックスの様な結論が導けることです。

 科学について哲学的に見てみるという私の目指すテーマにおいて、このような結論は重要な意味を持つと感じています。

 

 今回は以上です。次回は、次は逆にAIは人間の脳に追いつくことはできない。という2つ目の場合について考えてみようと思います。

 

 

華谷 忍

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今までのテーマの第一回目(2つ)

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人間とAIの差(境界)について―[1]

『華谷忍の妄想科学』。

 科学的に正しくないことであっても、「こう考えたらどうなるのかな?」ということをただただ書き綴っていきます。

 

 これを読んで、考えることって楽しい。って思ってもらえればうれしいです。

 

 

 3テーマ目は「人間とAIの差(境界)について」というテーマで書いていきたいと思います。

 

【目次】

 

《導入》

 2020年現在、AI(artificial intelligence)は、非常に注目され、実用化がすすめられています。その典型が、Softbank社のPepper君です。彼(あえてこの言い方をする)は、我々人間の行動に対して反応をし、質問をされれば答えを返してくれる。もちろん、それは完全に思考されたものではないけれども・・・。
 しかし、彼自身が自分の持つ人工知能から導き出して音声信号として発している以上、プログラミングされたものとはいえ彼自身の反応であるといえます。また、Deep Mind社の囲碁のAI「Alpha Go」が2016年に話題になったことがAIに関する記憶でよく残っているという方も多いと思います。
 この対戦用ソフトは、韓国人のプロ棋士を打ち負かしました。19路盤で繰り広げられ、碁石に特に個々の役割があるわけでもない。筆者もかじったことがあるゲームですが、初心者である私には白黒の意思が繰り広げる陣取りゲームを理解することはとても難しかった(真剣に勉強していないのもあるけれど・・・)。

 あの複雑な陣取りゲームでAIがプロ棋士に勝利したというのは驚異的な出来事だと思いませんか?


 研究が進んでいるAIは、今後も発展を続けると思いますし、我々の生活に深く入り込んでくるに違いないと考えられます。事実、2020年現在は鉄道や飲食業界でロボットが今まで人間が行っていた役割(駅員やウエイター)を担うような事例も出てきています。
 そのうち、持ち主の思考回路完全に学習して何もかも先回りしてやってくれる時代が来るかもしれません。あくまで、かもしれない…。という程度ではあるけれど、実現可能性はかなり高いように実感としては感じます。

 

 今回述べたいのは、そんな驚異的な発展を遂げるAIと人間の違い(境:さかい)についてです。
 「何を言っているのか。ロボットと人間なんだからそりゃ違うだろ」といいたくなるかもしれませんが、次項から真剣に論じていきたいと思います。

 

《人間とAIの境》

 さて、本題に移っていきます。今回、考えたいのは「人間とAIの境」である。境とはどういうことか。それも含めて考えていきたいと思います。
 そもそも、AIとは“Artificial intelligence”という言葉の通り、AI(人工知能)は人工的なものです。AIは人間があれやこれやと電子回路を組み合わせて開発したものにプログラミングをしたものです。

 つまり、彼らAIの思考に介在しているのは電気信号だけであることは想像に難くないと思います。さて、ここで考えてみてほしいことがあるます。それは、人間の脳の仕組みについてです。
 人間の脳も実は基本的には電気信号のやり取りで動いているのです。厳密には、シナプス間隙と呼ばれる隙間などでは電気信号ではない手段(神経伝達物質)で電気信号を伝達していますので、“電気信号のやり取りで”というのは語弊があるのですが、基本的には樹状突起や軸索で構成されている非常に複雑なシステムを電気信号が駆け巡ることで我々の脳は機能していると理解して差し支えないといえます。
 ただし、別の記事でも扱う予定ですが脳とAIとの関係についての議論では、神経伝達細胞について言及していきます。しかし、この段階で議論を煩雑にしたくはないため、電気信号のみでやり取りがなされていると定義しておこうと思います。

 

 

今回は以上です。

次回は、ここで感じた疑問について述べていこうと思います。

 

華谷 忍

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今までのテーマの第一回目(2つ)

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宇宙の外にはなにがある?[4]

『華谷忍の妄想科学』。

 科学的に正しくないことであっても、「こう考えたらどうなるのかな?」ということをただただ書き綴っていきます。

 

 これを読んで、考えることって楽しい。って思ってもらえればうれしいです。

 

 過去3回では、我々が一般的に思い浮かぶ一番大きなモノである「宇宙」について考えております。

 「我々の宇宙の外には何があるのか?」について書いて、もう4回目です。

 

前回の記事↓

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第1回目:宇宙の外にはなにがある?[1] - 華谷忍の妄想科学哲学

第2回目:宇宙の外にはなにがある?[2] - 華谷忍の妄想科学哲学

 

第4回目の今回で、このテーマについては終わります。

最終回の始まりです。

 

【目次】

 

《ホーキングの考え方をもとに》

 話は変わりますが、ここで一人の物理学者の考え方を持ち出してみようと思います。スティーブン・ホーキングという物理学者は、「宇宙人がいるのならば、我々はコミュニケーションをとるべきではない」というような旨のことを言っていました

 彼は、宇宙の始まりについて今我々が過ごしている「実数の時間」ではなくて「虚数の時間」からの説明を試みた物理学者です。時間の実数虚数についてはここでは論じません。何が言いたいのかというと、「宇宙人ならぬ「宇宙外生命体」が存在する可能性があるのではないか」「宇宙の外では我々の時間とは違う時間が流れているのではないか」ということです。

 

 もし、宇宙外に何かが存在するとしても、我々は現段階では接触しようだとか、その外へ出てみようだとか試みることは賢明ではないのかもしれません。なぜなら、ホーキングが危惧しているように、侵略された時、我々人類は食い物にされてしまうからです。

 もっとも、それは、向こう側が我々よりも優れた技術を持っていると仮定した時の話です。しかし、我々側にコンタクトをとれる時点で、宇宙に関して我々よりも高度な技術を持っていることはほぼ間違いないと考えることができるので、接触するべきではないのかもしれません。それが、仮に友好的な存在であったとしても、そうでない可能性もあるのですから。リスクがあることは避けようということです。

 

《まとめ》

 今回、私がこの「宇宙の外には何がある?」というテーマで文章を書いた理由は、「自分たちの住んでいる環境を有限なものとして考えてしまう」と、それ以上の進歩を我々はやめてしまうかもしれない。と考えていることがきっかけです。

 仮に、宇宙の外に何もない「無」の空間が広がっているとしても、このテーマで論じた可能性を否定することは現代の科学では誰にもできないことですし、突拍子もない考えであることは確かです。

 このような考え方を無意味な思考であると切り捨てる人もいるでしょう。それでも、私はそこの可能性がある以上は考えることを試みたいですし、それを否定するべきではないと考えています。

 

 ただ、宇宙の外側に何かある。ということを我々が観測し、そこにアプローチをかけようとすることは、私が期待していること、そして将来的になされるであろうことです。もちろん、現代の科学では難しいでしょうけど、今から60年前には宇宙に人間が行くなんてのはまだ実行されたことではなかったわけです。

 さらには、人間はそもそも自分たちの国の外の海を渡った先にほかの国の陸地があるだなんて太古の昔は知らなかったわけですし、地球の形でさえ数百年前まで球体ではないという説が当たり前に論じられていました。

 人間は、自らの認知できる範囲をどんどん広げてきているのです。人間の技術の進歩のスピードが指数関数的ともいえるほど加速度を増しており、宇宙の外について何かしら情報を得る時代が来るのはそう遠くない未来かもしれません。

 宇宙の外側には何があるのか、そのテーマについて考えるとあらゆる可能性が考えられ、ただでさえとてつもなく広く大きな地球の外に、さらに広がる世界はとてつもなく広いものであるということが分かっていただければ幸いです。

 

 以上で、「宇宙の外にはなにがある?」について終了です。

 次回は何について論じるか決めていませんが、お楽しみに!

 

華谷 忍

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宇宙の外にはなにがある?[3]

『華谷忍の妄想科学』。

 科学的に正しくないことであっても、「こう考えたらどうなるのかな?」ということをただただ書き綴っていきます。

 

 これを読んで、考えることって楽しい。って思ってもらえればうれしいです。

 

 前回から、我々が一般的に思い浮かぶ一番大きなモノである「宇宙」について考えております。

 「我々の宇宙の外には何があるのか?」について書いて、もう3回目です。

 前回の記事↓

shinobu-hanaya.hatenablog.com

 

前々回(初回)の記事↓

宇宙の外にはなにがある?[1] - 華谷忍の妄想科学哲学

 

 第3回目の今回は、前回に引き続き宇宙の外側についての場合分けの後編です。

 

【目次】

 

《宇宙の外側についての場合分け~後編~》

 前回は

① 宇宙の外側には、別の宇宙がある―Part1
② 宇宙の外側には、別の宇宙がある―Part2

 について書きました。では、3つ目は何でしょうか。

 

③ グラデーションのように境目が存在する。


 最後に、もしかしたら、「果て」自体は存在してはいるけれど、それは曖昧で他の宇宙とグラデーションのようにつながっている可能性も考えられることについて考えてみましょう。その場合、内と外の定義は難しいですが、境目から離れれば間違いなく「こっち側の宇宙」と「あっち側の宇宙」が存在しています。
 この考えに基づいて考えてみると、我々はほかの宇宙に苦労はすれど明らかに離れた場所にある宇宙よりはアクセスしやすくなります。境界が曖昧な地球の空と宇宙空間の行き来には大変な技術を要しますが、隔絶されたような物理的で目に見えるような壁は存在しないのです。

 すると、長距離、それも100億光年以上を移動するような技術さえ完成すれば、離れた宇宙より容易に他の宇宙へ行くことができるようになります。そこには、我々の常識を凌駕するような宇宙が広がっているかもしれません。
 もし、この可能性のように境界が曖昧であるとしたら150億年以上前に放出されたような我々の想像を超えるような昔の物質が地球に飛んできているかもしれないのです。それは何かもわかりませんが、あるとしたらいつの日かニュートリノのように観測によって発見される日が来ることでしょう。


 さて、ここで疑問が出てきます。それは、宇宙はビッグバンによって誕生したとするならばこの(果てがグラデーションの)可能性はおかしくないか。ということです。つまり、境界が曖昧な形で他の宇宙とつながっているのならば、ビッグバンが起きて一つのシャボン玉のように膨張していく過程は存在し得るのか。ということです。この疑問を解決しようするならば、一つの新たな可能性にたどり着くことができます。

 

・ビッグバンと果てグラデーション説を結びつける可能性1つ目

 それは、「宇宙同士が衝突している過程である」というものです。

 それならば、ビッグバン後にほかの宇宙と衝突して境界が曖昧になり始めているという説明もすることができる余地があります。
 宇宙の衝突については、今も宇宙で起きている銀河同士の衝突のようにいつか目で見て観測できる時代が来るかもしれません。もし、それを目にできるのならば私は目にしてみたいです。

 

・ビッグバンと果てグラデーション説を結びつける可能性2つ目


 この可能性について考えていくともう一つ言えることがあります。それは、「我々の宇宙の大きさを測定することは不可能である」ということです。

 境界が曖昧である以上、その先に広がっている空間もまた別のものとの境界を曖昧にしているかもしれないのです。

 ということは、宇宙は本当の意味で「無限の大きさ」を持っていると考えることもできます。

 それなら、我々が今日に至るまでに宇宙の正確な大きさを把握できていないことについて技術の進歩以外の理由から説明することができます。

 

 ここまで、宇宙の外側には何が広がっているのか。について考えてきました。③の仮定は外側という議論からは若干外れてはいますが、可能性を考えるうえでは個人的にぜひ述べておきたかったものです。

 ③の可能性は、要するに「そもそも宇宙に“果て”なんてものは存在しない」といっているわけですから、外側云々の話ではないことは明らかです。

 

 今回は以上です。

 次回はまた別の話をして、結論に結びつけようと思います。

 

華谷 忍

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宇宙の外にはなにがある?[2]

『華谷忍の妄想科学』。

 科学的に正しくないことであっても、「こう考えたらどうなるのかな?」ということをただただ書き綴っていきます。

 

 これを読んで、考えることって楽しい。って思ってもらえればうれしいです。

 

 前回から、我々が一般的に思い浮かぶ一番大きなモノである「宇宙」について考えております。

 今回はずばり、「我々の宇宙の外には何があるのか?」についてです。

 

【目次】

 

《宇宙の果てに関する場合分け》

 前回述べたのは、宇宙の成長もしくは縮小の仕方についての3つの説を扱いましたが、膨張するにしても縮小するにしても、それは形があるから論じることができることです。形がないのに膨張だの縮小だのという話は出てきませんからね。

shinobu-hanaya.hatenablog.com

 

 ということは、我々の宇宙には「果て」が存在すると考えて不自然ではないのです。

 簡単に言えば、壁です。我々の宇宙がシャボン玉だとしたら、そのせっけん液で作られた膜の向こう側があるということです。

 「宇宙に果てがある」と仮定したときに、始めて今回のテーマである「宇宙の外側」について考えようという興味が出てきます。そんな興味湧かないよ。という方もいると思いますが、私個人としてはとても気になることです。ですから、テーマに選びました。

 

《宇宙の外側についての場合分け~前編~》

 では、宇宙の外側についてここではいくつかの場合に分けて考えてみたいと思います。

 

① 宇宙の外側には、別の宇宙がある。Part1

 まず最初に挙げるのは、「我々の宇宙の外には、別の宇宙がある」というものです。ちょうど、シャボン玉のようにいくつも空間にふわふわと浮いている状態を想像してもらえればわかりやすいと思います。

 これは、物理の世界でも「多元宇宙論」として論じられていることです。パラレルワールド(多世界的解釈とか平行世界)というのも、この多元宇宙論に含まれるような議論です。
 もし、宇宙の外側に何かしらの空間があると仮定して考えるのならば、何かしらの方法を使えば、我々はその空間や、その空間に存在する別の宇宙に行けることになります。

 その手段が実在するか、実現可能かは別として。存在するのならばそこにアクセスする手段があると考えるのは何も不思議なことではありません。

 もちろん、その手段が存在しないと考えるのも、何も不思議がることではありません。要するに、我々の解釈を超越しすぎていてわからないのです。

 これについては、数学的に証明はできるのかもしれませんが、これは私にわかるような平易な学問ではないのでここ議論することは申し訳ありませんができません。
 そこにアクセスする手段として、皆さんも知っている言葉を持ち出すと、ブラックホールやホワイトホールです。滑稽な感じで書くと、ブラックホールに「わー」と吸い込まれて、ペッと吐き出されて「うげっ」ってなった先が別の宇宙かもしれないのです(気になる人は“ワームホール”で調べてみてください)

 ワームホールについては、観測や実践のしようがないので、本当に可能なのかはわかりませんが、物理の世界では可能性の一つとして研究されていることです。数学的に存在すると予想されていることと、実際に存在するということは別問題なので、ホワイトホールが存在しない可能性は十分にありますし、現在では否定的な見方のほうが強いそうです。

 ちなみに、ホワイトホールは存在しているとしても、その姿は観測できないとされています。光でさえ逃れられないブラックホールと対になるものですから吐き出す速度も光速以上だと仮定することができます。

 ここで、相対性理論の話が出てくるのですが、光速に近づくにつれてその移動している物体に関して、相対的時間は止まって見えるようになります。これは、加速に使うエネルギーが光速に近づくにつれ質量のほうに回されてしまうためです。

 つまり、加速を続けると、一定のレベルまで来たら加速は鈍くなりただただその物体の質量が増していくということです。ということは、ホワイトホールから吐き出されたものは、外から見るとある程度の距離で止まってみるようになります。

 すると、ホワイトホールを中心に吐き出されたものに囲まれてしまうように見えるのです。したがって、直接ホワイトホールを観測することは不可能である。という考え方ができます。

 我々の宇宙の外に空間があって、そこに風船のように離れて存在しているのか蜂の巣のように接しているのかはわかりませんが、仮にそうであったとしても、別の宇宙に行くためのトンネルは我々の目で直接は観測できないのです。

 もちろん、それらしき塊(ホワイトホールから吐き出されたものでできた塊のことです)を見つければ存在を予測することは可能かもしれませんが…。これ以上考えていくと、その塊の質量が大きくなった時にそれがブラックホールになるかもしれない、なんて考えも出てきますが、ここでの議論はしません。

 

② 宇宙の外側には、別の宇宙があるPart2


 ① で論じた、我々の外にある宇宙についてですが、もう一つの見方ができます。それは、我々の宇宙は別の宇宙に内包されている。というものです。「宇宙in宇宙」です。

 もし、この時、我々の宇宙を包むさらに大きな宇宙から見た我々の宇宙はどのようなものに見えるのでしょうか。大きく二つに分けて考えて見ましょう。

 

〈観測は難しい〉

 一つ目は、我々の宇宙から見た別の宇宙が現状観測不可能なように、我々を包む宇宙からも我々の宇宙の観測は難しいという考え方です。もちろん、我々の文明を超越したような技術力持っていれば、観測は可能なのかもしれませんが、仮に観測できたとしても、はっきりと見えるという選択肢以外に、「どうやら私たちの宇宙にもう一つ宇宙らしいのが浮いているが、どうも観測は難しい。いわんや、その中がどうなっているか知ることをや」というような状態になっていることも考えることが可能です。

 

〈外側の宇宙は内側の宇宙を認識している〉

 二つ目は、我々の宇宙を包み込むさらに大きな宇宙は、完全に我々の宇宙の存在を認識しており、観測することも可能であるという考え方です。その場合、外の宇宙にいる生命体が優れた文明を持っていなければ、我々が遠くの銀河を見ているように「ああ、あるんだなあ」と思ってみているだけであると考えられます。

 ちょうど、我々が金魚鉢を見るように我々の宇宙を見ているかもしれませんし、金魚鉢の中の金魚のように我々は何者かによって育てられているかもしれません。
 もし、向こうがこちら側の宇宙にアクセスする方法を持っているのならば、宇宙外生命体なんてものも定義できるかもしれませんね。
 そして、宇宙がさらに大きな宇宙に内包されているという考え方は人体にも似ているところがあります。人体という大きな形の中には細胞というものが存在しています。その中にはミトコンドリアなどのさらに小さなものがあり、当然それらも…。というように、ないほうに内包を重ねて我々の世界は構成されています。

 我々人間も、昔は宇宙なんてものの存在は知りませんでしたが、今は近くできていますよね。もちろん、規模が大きくなれば構造は複雑化していくことは火を見るよりも明らかです。

 我々の宇宙を人間。内包する宇宙を地球。そのように考えると、この②で論じているような可能性を真っ向から否定することは簡単にはできないはずです。とはいえ、仮に我々の宇宙が何かしらの一部として機能しているとしても、いまのところ我々には全く関係のない話であります。

 

以上。今回は宇宙の外側について2つの視点から考えてみました。

次回は、後半について論じていきます。

 

華谷 忍

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