華谷忍の妄想科学哲学

日々妄想した「もしこうだったら」「実はこうなのでは?」ということを徒然なるままに。非科学的であろうとも考えてみる。がモットー。

未来が過去を規定していると考えたら・・・?[3]

『華谷忍の妄想科学』。

 科学的に正しくないことであっても、「こう考えたらどうなるのかな?」ということをただただ書き綴っていきます。

 今回は第3回。

 

 これを読んで、考えることって楽しい。って思ってもらえればうれしいです。

 

【目次はこちら】

 

前回までの流れは以下の記事をチェック

第1回目⇒未来が過去を規定していると考えたら・・・?[1] - 華谷忍の妄想科学

第2回↓

shinobu-hanaya.hatenablog.com

 

4つの壁(後半)

  • ③時間は無限に続くので終わりはない。

 そもそも、時間に終わりも始まりもなく、永遠に続くものである。①の仮定と同じように、時間について考察した時に真っ先に出てくる考え方ではないか。と思います。
誰しも、物事に終わりがあること(10代の自分はいつか終わるし、楽しいテレビ番組も長くて数時間後には終わってしまいますよね)は分かっていても、「時間」ということだけに限って考えてみると、今読んでいる方も含めて世の中の大多数の人が「時間という概念について考えたら、それは有限なものではなく無限である」と考えるのではないでしょうか。私自身も普通に考えたらそう思います。本書のようにいろいろと考えを巡らす過程で、普通ではない考え方をすることが多々あるわけですが・・・。
 もし、時間が無限に続くとするならば、本書で扱っている考え方からくる「過去を規定する未来の存在」が曖昧になってしまします。
 例えば、本書の「未来が過去を規定している」との仮定に立って考え、「ある時点の時間=x」とすると、「x=10年後」の時、xは「x-1=9年後」を規定していることになるのは分かると思います。しかし、時間を無限に続くものとして終わりがないとすると、その無限にある先を数式にしたらその時点の時間は「x=∞年後」になるわけです。前の10年ごと9年後の例のように、xが「x-1=∞-1年後」を規定していることになります。さて、「∞―1」って何でしょうか。限りなく大きな数から1を引いたところで、限りなく大きい数は限りなく大きい数です。“いわゆる数学”の常識として、「∞」に加減乗除をしても「∞は∞」ですよね。ここで分かる人は分かるのではないでしょうか。つまり、「x=∞」としたとき、xが規定する先の時間が無くなってしまうのです。それと合わせて、過去の側も規定される先の未来がなくなってしまいます。そもそも、有限の世界しか知らない人間が頭の中で考えたのが無限の世界なので、人間の考える世界ではこのように結論を出すことができないのも無理はないと思います。というわけで、③のこの仮定に立って本書のテーマについて考えると、我々の知りうる考え方では行き詰ってしまうことが分かります。
 行き詰ってしまうこと。実はこれは重要なことです。行き詰ってしまうという事実が、この仮定について「未来が過去を規定するというのは誤りである」。「そもそも、この③の仮定が誤りである」。「この③の仮定は間違っておらず、この先の時代に数学的、物理的に証明される可能性がある」。「過去が未来を規定していると考えると、時間の始まりについて論じることができる以上、そもそも本書の仮定が誤りである」。と様々な可能性を考えることができるのです。

 このように考えられる可能性をいくつも挙げて、何か考えたい対象の物事について検証をしていくということはとても大切です。
 時間に終わりがない。このことについて、「そんなのわかっているよ」という声が聞こえてきそうですが、この仮定も本書では重要な仮定の一つなのでこの場に挙げてきます。

 

  • ④時間は途方もない未来まで行ったら、我々にとっての途方もない過去に戻る。

 皆さんは有名な「ウロボロスの図」というものをご存じでしょうか。知っている方に説明は不要ですが、知らない方のためにまずこの図の説明から始めたいと思います。図自体は、蛇が自らのしっぽに噛みついていて環の形になっている図です。この図は、蛇の頭側が大きな尺度の世界。例えば、天体だとか相対性理論で扱う世界だとかを表しています。しっぽ側は、非常に小さな尺度の世界。例えば、原子だとか素粒子だとかそういう世界です。その頭としっぽが噛みつくことにより同一の場所にある。(蛇の口の中にしっぽが入りこんでいる=二つの世界が同一の場所にある。ということです)
 詳しく書くと、宇宙が誕生したその瞬間の宇宙の大きさはものすごく小さかったのです。つまり、我々の住む宇宙で流れる世界の始まりが蛇のしっぽ側。素粒子、原子、微生物、動物、山、地球、銀河、グレートウォール(宇宙で最大の構造物で、地球から約2億光年離れているものです。正体は、多くの銀河でできた壁で大きさが数億光年にも及びます)と蛇の頭側に近づくにつれて大きくなっていきます。当然、大きなものほど後世に時間はかかります。そのため、ここでは蛇の頭側を時間の終わりとして考えてみましょう。少し考え方としては乱暴かもしれませんが、わかりやすく書くという本書の方針の一つに沿って話を進めていきたいので、この考え方で行こうと思います。
 というわけで、時間の流れをウロボロスの図のように考えていくと、時間の流れは循環していて、「過去が未来を規定している」と考えたときも「未来が過去を規定している」と考えたときも結局、過去と未来は互いにつながっていると考えることができます。

 つまり、本書で論じている「未来が過去を規定している」というテーマでは、結局のところ、未来をたどった先にあるものは過去となりますし、過去をずっと遡った先にあるものは未来となり、「未来が過去を規定している」し「過去が未来を規定している」と考えることができるようになります。つまり、本書のテーマは「過去が未来を規定している」に読み替えても差し支えないことになります。

 このように、この仮定をもとに考えていくと、時間の流れが一方向に定まっていないことが明らかにわかります。
 それでは、この仮定の議論は「未来が過去を規定している」とのテーマにそぐわないのでは?という声が聞こえてきそうですが、私はそうは考えません。「過去が未来を規定している」と考えているだけでは、決して「時間は循環しているのでは?」という考え方は出てこないように思えます。「未来が過去を規定している」と考え、既存の考え方と合わせて考えたときに初めて「時間は循環しているのでは」という仮定が出てきます。

 そして、結果として「未来が過去を規定している」と考えたときも「過去が未来を規定している」と考えたときも得られる結果を互いに読み替えても何ら差支えのないことまでわかりました。

 

 以上、今回は「時間の終点」について4つの壁のうち後半2つを述べました。

 

 いかがでしたでしょうか?

 

 次回は、詳細な考察について述べていこうと思います。

 

 

華谷 忍