華谷忍の妄想科学哲学

日々妄想した「もしこうだったら」「実はこうなのでは?」ということを徒然なるままに。非科学的であろうとも考えてみる。がモットー。

人間とAIの差(境界)について―[4]

『華谷忍の妄想科学』。

 科学的に正しくないことであっても、「こう考えたらどうなるのかな?」ということをただただ書き綴っていきます。

 

 これを読んで、考えることって楽しい。って思ってもらえればうれしいです。

 

 3テーマ目は「人間とAIの差(境界)について」というテーマで書いています。

 

 前回は、導入部分と本論をほんの少し書きました。

前回までの記事↓

人間とAIの差(境界)について―[1] - 華谷忍の妄想科学哲学

人間とAIの差(境界)について―[2] - 華谷忍の妄想科学哲学

人間とAIの差(境界)について―[3] - 華谷忍の妄想科学哲学

 

 

 今回は、人間の脳とAIの関係に関する3つ目、4つ目の場合について扱おうと思います。

 

《人間の脳とAIの関係》

③AIと人間の脳のとの間にある差が埋まることはない。Part2

(AI≦人間の脳)

 前項でも少し触れましたが、AIが神経伝達物質を生成して適切に利用することができたとしましょう。③では、それでもAIは人間の脳のように“意識”を獲得することはできない。という立場に立って考えてみようと思います。

 

 ここまでのことを整理すると、①では電気信号の再現でOK。②では、電気信号+神経伝達物質の再現でOK。こうなります。

 つまり、③ではそれ以上のプラス要素について考えてみます。ここまでくると、もはや科学的な話ではなくなってしまいます。しかし、私自身の議論の性質として非科学的な哲学的なものを無視して進めることはしたくはありません。

 なぜなら、確かに非科学的なものはどう考えてもあり得ません(神はいる。とか)が、それを論理的に証明できたわけではありません。いわゆる「悪魔の証明」ではありますが、悪魔の証明であろうと何であろうと非科学的なものはあり得ないと証明されていない以上、それは可能性の一つとして考えたいと思います。

 

 というわけで、③で扱うのは非科学的な領域のものになります。

 電気信号、神経伝達物質、これ以外に脳の中で起きているやり取りは血液が考えられるが、化学物質の作用という点で神経伝達細胞と似たような議論になると考えられるので、ここで取り上げることは控えたいと思います。

 非科学的なものとして、ここで第一に挙げたいものが「神の作り出した人間らしさ」です。要するに、人間の脳が人間の脳らしく振舞うことは、人間の種が誕生した時に神から与えられた宿命だと考えて進めてみるのです。

 いささか宗教じみてきましたが、特定の宗教の宗教観に立つつもりは毛頭ない。ということは前提として言っておこうと思います。

 しかし、もし電気信号&化学物質でも人間の脳の“意識”をAIが獲得できないとするならば、もう神の領域に踏み込むか、脳以外のところにその根源を求めるしかありません。脳以外のところへ踏み込むのは人間の脳という点から離れてしまい長い議論となってしまうため、やはり神の領域についてを考えることになってしまうと思います。

 

④AIは人間の脳を凌駕するときがくる。

 4つ目はAIは人間の脳を超えるレベルにまで進化するときがあるということについて考えていきたいと思います。

 実は、本稿で扱ったテーマは認知科学という分野もかかわる議論で、今回のテーマでいうところの“意識”は完全にイコールではないにせよ“認知”と言い換えることもできます。

 実際に「意識と認知」はイコールの意味として用いられることもあります。

 つまり、AIは“認知”することは可能かという問題と再定義することもできるのです。現状、ロボットが何か刺激に対して反応を示したり、搭載されたカメラで目の前にあるものを何か感知したり、果ては痛みを感じるものまであるといいます。

 つまり、ある程度の“認知”はしていると言えるのではないのでしょうか。もちろん、だからといって即ちAIが“意識”を獲得しつつあるということは判断として尚早でありますが、“認知”と呼べるような反応をAIにさせることができつつあるということは、筆者個人の考えとしては今後の科学技術の発展によって“意識”を獲得したもはや人間と言って差し支えないようなロボットが登場すると考えています

 それがどのような形であれ、ドラえもんや映画『A.I.』のような人間が感情を持って行動し、人間と共存するような社会は遅かれ早かれやってくるのではないのでしょうか。

 しかし、その裏には本稿でも論じたようにロボット側の反逆がある可能性を忘れてはなりません。すでに技術の発展は、映画『I,Robot』のような世界観を笑えないような段階に来ていると感じています。

 そういったAI、ロボットの「負の側面」について人間が太刀打ちできるような術、または対策が確立されるまでは人間はAIを無用に進化させてはならないと私は考えます。暴走した原子力発電所のように人間自らの制御下を離れたものがどうなるかは、火を見るより明らかである。と考えているからです。

 

 また、別の映画『エクス・マキナ』では高度に発達した“もはや人間”ともいえるAIがその開発主を騙して最終的に人間社会へと出てしまうという描写が存在します。

 ここで問題なことが、ずばり「少なくとも社会的には人間の脳とAIの境が曖昧になってしまう」ことなのです。

 高度に発展し、事故ですべてを完結できる形のAIはもはやパッと見て人間との区別がつかなくなってしまう。もちろん、服を脱がせてみればその内側にあるのは機械であるから生物学的には間違いなく人間ではなくAIであるのは誰の目にも見ても明らかなので「人間の脳=AI」ということにはなりえないのですが、社会での生活の営みを構成するパーツ(社会の構成員という意味であえてこの言い方をします)としては人間の脳もAIも差がないと考えることが可能です。

 

《今回のまとめ》

 このような映画の中だけの話で現在は収まっていることが、さまざまな技術の発展によって映画の中だけでは収まらない。少なくとも、一昔前に想定されていたような未来はすぐそこに来ていると考えることができるのです。

 

 今回は以上にしたいと思います。

 次回は、4つの人間の脳とAIの関係とその後の話から見て結論に結び付けたいと思います。

 

 

華谷 忍

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今までのテーマの第一回目(2つ)

shinobu-hanaya.hatenablog.com

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