華谷忍の妄想科学哲学

日々妄想した「もしこうだったら」「実はこうなのでは?」ということを徒然なるままに。非科学的であろうとも考えてみる。がモットー。

未来が過去を規定していると考えたら・・・?[6]

『華谷忍の妄想科学』。

 科学的に正しくないことであっても、「こう考えたらどうなるのかな?」ということをただただ書き綴っていきます。

 

 これを読んで、考えることって楽しい。って思ってもらえればうれしいです。

 

 今回は第6回。

 前回からの詳細な考察。

↓前回の記事↓

shinobu-hanaya.hatenablog.com

 

↓それ以前の流れが気になる方はこちら↓

未来が過去を規定していると考えたら・・・?[1] - 華谷忍の妄想科学哲学

未来が過去を規定していると考えたら・・・?[2] - 華谷忍の妄想科学哲学

未来が過去を規定していると考えたら・・・?[3] - 華谷忍の妄想科学哲学

未来が過去を規定していると考えたら・・・?[4] - 華谷忍の妄想科学哲学

 

 今回は「4つの壁」のうち④について詳細な考察を書いてみようと思います。

 

【目次はこちら】

 

《詳細な考察-④について-》

 最後に④はどうなのでしょうか。あらかた、④の箇所で論じてしまいましたが、実際に時間が循環しているのと似たような現象を自然界でも見ることができます。あくまで、ここでは実感を持ってもらうためのものなので、ずばり時間が循環しているという現象ではないことをご承知おきください。ここでは、2つの例を出して話してみたいと思います。

 

〈時間の循環〉

[1つ目の例:地球の公転]

 一つ目は、ずばり地球の動きです。単純に地球が描く真円の中心に太陽があると考えてみましょう。ある一点から、地球がぐるっと一周すると、同じ場所に戻ってきます。この場合、時間が過去から未来へ流れたわけですが、場所は変わっていません。つまり、過去の地球の位置と未来の地球の位置、もっと短くまとめてしまえば、過去と未来が同じ場所に存在します。

 このようなイメージで、時間とは「未来と過去の区別がないものなのかもしれません」ということを④は言っていたわけです。この④の仮定から導ける結論は「時間の流れは単一方向ではなく、循環しており過去だとか未来だとかそういう区別すらない。

 しかし、我々の生きている時間軸で考えるのならば、過去が未来を規定しているし、未来もまた過去を規定している」というものです。これは、私個人としては妥当な結論だと思うのですが、皆様どうでしょうか。

 それを考えるのが本書の趣旨の一つなので少しだけ論じてみたいと思います。先ほどの地球の移動の例で、過去と未来が同じ場所に存在することを感覚的には分かったと思います。

 

[2つ目の例:ベニクラゲ]

では、2つ目の例を出して、感覚的な理解からより時間の流れについての話に落とし込んでみたいと思います。この例の主人公は「ベニクラゲ」と呼ばれるクラゲです。このクラゲは、通常通り小さな状態から繁殖可能な状態へと成長していきます。

 しかし、ある程度成長すると、再び小さなころの状態へと戻ってしまうのです。そして、また成長して。というのを繰り返します。つまり、不老不死なのです。生物の成長を未来へ未来へと進めていったら、そのまま連続して過去会った状態へと変わってしまったのです。ここでは複雑になるので、クラゲの中での時間の流れだけを考えましょう。そうすると、未来のその先に過去があることになります。これって、このクラゲにとって未来と過去の区別がないことに他ならないと考えることってできませんか?

 話を戻して、以上のような考え方をしてみると、④でも書きましたし今ここで論じたように、「時間は循環している。未来と過去の区別はなく、未来が過去を規定しているともいえるし、過去が未来を規定しているともいえる」との結論は、現実世界(ベニクラゲの例)でそのまま適用するのが正しいのかどうか分かりませんが、ありえない話でもないのがわかってきたと思います。したがって、④の仮定も一定の妥当性を有していると結論付けてよいでしょう。

 

〈割り切って考えてみる〉

 また、議論が複雑になるのであえて4つの仮定の部分では論じませんでしたが、「未来が過去を規定している」と考えるとともに、「過去が未来を規定している」と考えることもできる。という可能性も考えることができます。つまり、過去と未来が相互に影響しあっているということです。そういう考え方をすることで、今までの議論で生じていたあらゆる問題を解決することができると思いますが、もちろん新たな問題点も出てきます。その問題点は、過去と未来が競合することはないのか?ということです。

 もちろん、「過去が未来を」「未来が過去を」とそれぞれが規定しあっている。影響しあっている。と個別に考えて、「そういうものである」と納得することができるのであれば、それはそれでいいのですが、どうしても疑問に思ってしまう方はいると思います。

 もし、この「未来と過去が互いに影響しあっている」という仮説が正しいとするならば、この問題点(疑問)については、「そういうものなのだ」と割り切るほかありません。そもそも、現在の物理学の世界でも我々の常識で考えると意味が分からないことでも、数学的に正しいことなどたくさんあるのですから。そういうものなんのだな。と割り切って考えることも、こういう哲学的な思考では大切であるといえます。

 「今までの常識にはそぐわないけど、そう考えるのが一番自然だし、そういうもんだと思うと計算がうまく行くし、実際にそれは正しかった」という具合に割り切って考えるというのは、哲学だけの世界だけかと思いきや、本書で直接関係する物理学の分野でも思いのほか重要な考え方です。いくつか例を挙げるとなんとなくわかっていただけると思います。

 

[例:光の速度について]

 例として、光速についての考え方があります。実は、光は、たとえ時速1万㎞で進むロケットの先端から照射しても、静止した状態から照射しても、その放たれた光の速度は必ず光速であるのです。普通、時速100㎞の車から進む方向にボールを時速50㎞で投げたら、外から観測した場合のボールの時速は150㎞になりますよね。

 この、観測するものによってボールの速さが時速50㎞に見えたり、時速150㎞に見えたりするのがいわゆる相対性理論の考え方のキモなのですが、本書は相対性理論について科学的に論じるものではないので、ここでは置いておきましょう。

 話を戻すと、光速はこれらの常識が通用しない世界に生きているものなのです。どこで観測しようとも光速は光速です。この考え方、今でこそ世間に知られている考え方ですが、当時はちゃんちゃらおかしい考え方だったはずです。

 しかし、「光の速度とはそういうものなのだ」と割り切って考えて計算を続けた人間がいたから、現代の物理学があるわけです。それが相対性理論なのですが、その理論で有名なのがかの有名なアインシュタインですね。彼はほかにも、普通の人間が到底考えないようなことを物理学的に考え、それを実証してきました。

 もし、彼が「とりあえず、これはこういうものだと割り切って考えよう」という考え方をせずに、「いや・・・これはありえないだろ」と考えていたら、彼はここまでの功績を遺せていませんし、我々の今の生活もないでしょう。

 話がそれましたが、割り切って考えてみることで新たに見えてくる世界もあるのですよ。ということを私はここでいいたかったのです。

 

今回は以上です。

次回は、「4つの壁」についてのまとめをしていこうと思います。

 

 

華谷 忍

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